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筒井康隆「銀齢の果て」の感想をぽろぽろ

 現代社会における未曾有の高齢化には、果たして明瞭な解決策が存在するのだろうか?単なるホスピタリティの増大ではない抜本的な解決は、幻想に過ぎないのだろうか?そんな疑問を恐ろしいほど具体的に解消したのが、筒井康隆 著「銀齢の果て」である。雰囲気を掴んでもらうため、以下にあらすじを一部引用する。

「増大した老齢人口調節のため、ついに政府は70歳以上の国民に殺し合いさせる『老人相互処刑制度(シルバー・バトル)』を開始した!」(一部抜粋)…①

どう考えても「バトル・ロワイアル」…②のパロディであることは明白だ。作中にあからさまなパロディ台詞も存在しているため、隠す気はないようである。ただ、殺し合いを迫られた高齢者たちの様子にはいつも通りの筒井康隆節が効いていて、罵倒と猥談が全ページに響いている。気軽に読めるものではない。ただ、いわゆる「バトロワもの」と聞いて勘づいた方もいるかもしれない。
「どうせ、超人と化した爺さん婆さんが大活躍する小説なんだろう?『日の出通り商店街いきいきデー』で読んだから知っているんだ。」…③
半分当たっている。だが筒井康隆はエロ・グロ・スプラッタの旗手である。まともに殺し合いを書くわけがない。いや、まともすぎてまともでないというのが正しいだろうか。本作に登場する70歳以上は、全員新なる意味で”老人”なのである。腰が曲がっていて緩慢、非力なので殴り合いなんてできない、少し歩くだけで息が上がり、寝たきり老人が真っ先に狙われ、武器は包丁が大半なので裂傷の苦しみが長く続く…と、弱者同士の争いをまざまざと見せつけられるのだ。それを最も端的に表しているのが大阪西成区・反町区のバトルである。この地区ではどうせ殺し合うなら興行のような形にして子孫に財産を残そうという目論見がなされており、テレビのリポーターがその様子を述懐する。以下、本文の抜粋。

「……あっ。今、鎧兜のあのお爺さんが、横から拳銃で撃たれて倒れました。バトルが本格的に始まりました。わあっ。これ、面白ーいっ。あっ。面白いなんて言ってはいけませんね。皆さん真剣に戦っておられます。今、鎖鎌を振りまわしたお婆さんが、鎖を自分の首に巻きつけて、分銅をご自分の顔面に叩きつけてぶっ倒れました。恐らくお亡くなりになったのではないかと思われますが、それから、それから。ああっ。これ、同時にあっちこっちで目茶苦茶面白いことがいっぱい起っていて、一度にご報告できないんですよねー。カメラは一台だし。あっ。あのお爺さんは、槍を振りまわしているのか、振りまわされているのか、とうとう自分で倒れてしまって、小太刀を持ったお婆さんに首を切られて成敗されてしまいました。……」…④

この描写で残酷なほど克明に老人の戦闘能力が表されている。非力で、鈍く、人殺しなんかしたことがない、弱者同士のバトルをこの小説は題材としている。特に凄惨なのは老婆が主軸となったときで、非力なせいで基本一方的に殺されてしまう。武器もないので包丁で滅多刺しにするしかない。当然、致命傷は与えられない。筋肉の薄い老人の骨に包丁が当たり、かつかつと音が鳴る様な感覚を覚える。電気屋主人をしている老人が登場するのだが、夫と妻が双方弱い部類であるため読んでいて特に辛かった。
そんな殺し合いを筒井康隆はいかに表現したのか。私が感じた点を挙げていこうと思う。

〈文章の修辞について〉
 本作には感嘆符と疑問符がほとんど無い。そのため、悲鳴にも怒声にもいまいち覇気を感じられない。これは筒井康隆特有のレトリックなのだが、ことこの小説においては作品に通底するペシミズムの強調に一役買っている。死の間際に発する叫び声にすら感情がこもっていない様には、老人の死を当然の帰結として受け止める社会の意識が反映されているのだろう。自然の摂理にそう驚嘆してはいられないからだ。
本作の死に共通する不気味な喪失感は、ドラマティックに脚色されていないが故の共感にあると思う。いずれ自分もこんな目に遭うかもしれないという一種の諦観を覚えるのだ。
首を切られるのか、首を締められるのか。いずれにせよ、持たざる者の殺害方法は異様に生々しく肉感を伴っている。高潔な精神など、エンタメに見られる極端な性格の人間がいないことも共感性に拍車をかけているだろう。団結して制度に抵抗する老人たちはほとんどおらず、皆殺し合いに身を投じている。その無抵抗さにも哀れみを覚えるし、自身の将来と重ね合わせることでまた喪失感を覚えるのである。

〈老人の殺し合いとは〉
 本作の老人たちは基本的に持たざる者である。しかし、資産を持つ者、経験を持つ者、道具を持つ者は話が違う。ピストルをヤクザから買い取って武装し、元自衛隊員は狙撃を行い、ある夫婦は捕鯨砲を構える。少なくとも、数人の老人は全生涯をかけてバトルに参加している。自身の知恵を頼りに戦いを繰り広げる様は正直いって格好良かった。
そして、物語も終盤になると事態は混迷を極めて面白くなっていく。相も変わらず殺し合いが続いているものの、個人々々の備える戦力が完全に過剰な領域に達することで、ドッカンドッカンと大騒ぎになってしまうのだ。こうなると最早笑うほかない。予想外の展開がどんどんやってくるのだから仕方ないだろう。老人同士が命懸けで間引きし合っている様を見て笑うのは、まさにブラックユーモアだ。この段階で私の心情は上述のレポーターと同じ状態になっている。

 筒井康隆は過去にも社会から排斥された存在の末路を書いている。「定年食」では老齢人口を貪り食う社会制度を提示し、自然の摂理による人間の間引きを読者に意識させた。また、同年代のSF作家である藤子・F・不二雄もた「定年退食」で老齢人口を見放すことで人口の間引きを提示した。…⑤
人口が増えすぎたので、もしくは社会財政が逼迫したので間引くという思想はさまざまな作品において題材とされている。では「銀齢の果て」で示された殺し合いがいかなる理論を根底に秘めていたか、題材が似た作品と比較しながら考えてみようと思う。
以下は思いついた作品の一覧。



これら作品(出来事)に共通しているのは”選択の論理”というものが働いている点である。これは今私が作り出した観念だが、「全体幸福のために個を切り捨てることを是正する」思考だと理解してもらいたい。
”選択の論理”が適用された作品の多くでは間引きの性質を持ったイベントが供される。それは間引き対象者同士での戦闘であったり、特定人物の排斥であったり、ある権力による選抜であったりする。しかし”選択の論理”において常に共通している要素として、”仕方がない状況”というものがある。これを敷衍すると、「社会情勢がほとんど詰みの状態にあるため、生産能力向上よりも消費の抑制を行わなければならない」と説明できる。ポジティブなペシミズムともいえようか。この”仕方がない状況”を如実に表した例として「穏健なる提案」が挙げられる。…⑥
中世ヨーロッパのアイルランドに対する提言として書かれたこの文書は、逼迫した国内情勢に対して、「貧民の子どもを食糧として利用することで、経済と人口増大の双方を救済すること」を大真面目に提案している。当時のアイルランドで実際に発生していた事態に対して痛烈な皮肉を与えたこの文書だが、「逆境への対策として弱者を排除する合理的な殺人」を全体利益のために容認する倫理の崩壊という、のちの作品に通底するフォーマットはすでに押さえている。この弱者の排除こそ、”仕方がない状況”の重要なファクターである。その点で言えば、上記の作品群には今回の例としてそぐわないものがあるかもしれない。もう一度考え直してみる。

上記は私の私観による作品ごとの分別である。恣意的なため異論はあるだろうが、まずはこれを前提として話を進めたい。
 「銀齢の果て」と同質な社会が舞台となっているのは”コミュニティ維持のために弱者を間引く”作品群。だが、”コミュニティ維持のために無造作に間引く”ことも”生存のために誰かを犠牲にする”ことも根底では「銀齢の果て」と目的を一緒にしている。
 特に注目すべきは、「バトル・ロワイアル」が「銀齢の果て」と別なカテゴリーに入っている点である。これは根本的な間引きの意義に注目した為で、「バトル・ロワイアル」は政府による国民の懐柔が図られているのに対し「銀齢の果て」では人口調整そのものに重点が置かれている。前者は手段として、後者は目的として殺し合いが実施されていることが伺えるだろう。ここで思い浮かぶのは年齢による社会的役割の違いだ。手段としての間引きでは未来の可能性を奪うことで恐れを引き出しているが、目的としての間引きで犠牲になるのは弱者であり、生産人口として期待できない高齢者や負担になるだけの赤子など、邪魔な存在の排除を行なっているのである。結果的に、生存に値する者のみこの世に存在してよいというある種の差別がその場に介在し、人間の中にカーストの様な意識を芽生えさせる。これは制度によって生み出され、操作されるものでもあるため歴史的な階級制度とは違った効果を人々にもたらすだろう。実際、恣意的なカーストとはどんなものであろうか。
楢山節考で示された姥捨ての慣習は、貧窮した時代に発生した仕方がない間引きの行動である。この時、間引きの対象となる老人たちに現役世代が抱く思いとは優越感のソレではなかっただろうか?現実にコミュニティ内の口減しを行う際、消費の抑制に真の目的があるわけではなく、自分たちよりも下の立場にある者を暗黙理に生み出すことに重点が置かれていたのかもしれない。自分達よりも下の立場という自認はどこから生じるのか。
大半の事態において社会の一員として期待されない対象が被差別を受けることになるが、この期待の発生源はいわゆる労働力に他ならないだろう。労働力として期待できない老人や赤子が間引きされる状況が裏付けるのは、人間の価値が労働の如何に置かれているという本能的な集合知だ。実際のところ、働けないということは動けないということと同義な訳で、精神面での不調に対する理解が乏しかった過去において動けぬ者はほとんど死者と同義だったのではないだろうか。
活動できない仲間を負担として排除する様は、動物の母親が行う子殺しと非常によく似ている。人間が動物と違うのは、ある種の特権意識によって優越感を得ることができる点にある。口減しされる老人に哀れみを持つことで自身の若さを再確認でき、ひいては生きる権利まで担保されるのだから心の健康は不思議と保たれるだろう。これは、私たちが自分より格下の相手を見つけて安堵する感情と同質なものだ。階級制度を人工的に生み出す試みは、政治的な施作と言うよりも宗教的な民意とも言える。

 老人たちが殺し合いをする中で浮かび上がってくる疑問、「老いることは悪なのか?」。ただ歳をとるだけで社会から爪弾きにされ迫害される様は、さながら悪者になった気分だろう。老人に対する悪感情は社会的な義務感や焦りから発せられるのではなく、もっとプリミティブな位相から湧き出ていると思った方がいい。「旧世代の、時代遅れな、ヨボヨボの、非力な」、こういった言葉でラッピングすると下に見ることができる。親切にすると自分の欲が満たされる。だから老人は弱者で、迫害されねばならないのだ。
だが、実際に老人同士の殺し合いを見ると弱者という言葉では片付けられない何かを感じる。生き残るために生涯の経験を使う元自衛隊員、財力で武器を買う独居老人、殺し合いに生きる興奮を覚える猟友会。側から見れば若者に負けないエネルギッシュな生き様がそこにはある。少なくとも老人たちが老いることは必定だが、その負荷を受け入れた者たちならば問題なく生を謳歌できるのではないか。私はそう結論づけたい。

2024/11/26/10:41  校了


引用元

①…筒井康隆、銀齢の果て、株式会社 新潮社、平成二十年八月一日、300p、カバー背面
②…1999年4月21日に太田出版および幻冬社が出版した高見広春  著の小説。中学生同士の殺し合いを書いており、ショッキングな内容から当時は話題になった。ネット上ではこの内容をオマージュした「バトロワもの」が流行した。
③…1997年に講談社文庫が出版した中島らも 著「白いメリーさん」に載っている短編の一つ。商店街の人々が自前の武器で戦う所謂「バトロワもの」。2008年に「世にも奇妙な物語」としてドラマ化、超人的な動きで戦いを繰り広げるようになった。
④…筒井康隆、銀齢の果て、株式会社 新潮社、平成二十年八月一日、300p、229p〜230pより
⑤…1973年発表の藤子・F・不二雄による短編漫画。私は藤子・F・不二雄SF短編コンプリート・ワークス 2 (ビッグコミックス)にて読んだ。
⑥…1729年にジョナサン・スウィフトが発表した諷刺文書。正式名はとても長く、「アイルランドの貧民の子供たちが両親及び国の負担となることを防ぎ、国家社会の有益なる存在たらしめるための穏健なる提案(A Modest Proposal: For Preventing the Children of Poor People in Ireland from Being a Burden to Their Parents or Country, and for Making Them Beneficial to the Public)」である。

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