第三章数学と幽霊Ⅱ、第十七話 二人のアマテラス Ⅱ
第三章 数学と幽霊Ⅱ
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性同一性障害と勘違いして悩む
義理の妹に悩むぼくの物語
第三章十七話 二人のアマテラス Ⅱ
第一話~第十ニ話 数学と幽霊Ⅰ、総集編
第十三話 愛光女子学園-恭子と順子
第十四話 恭子
第十五話 邪教
第十六話 二人のアマテラス Ⅰ
第十七話 二人のアマテラス Ⅱ
前置き
二十一世紀の現代の小説を書いているのに、一万年前の最終氷期(ヴュルム氷期)の話から初めるというので、これはトリッキーなことなんですが、お許し願いたい。
「第三章数学と幽霊Ⅱ、第十六話 二人のアマテラス Ⅰ」からの続き
卑弥呼の後宮の統率者、天鈿女命
ヒミコは生涯独身で処女であった。しかし、性行為自体を全くしなかったわけではない。彼女はスサノヲと挿入以外のあらゆることをした。また、千人の侍女の中で選りすぐった女と性行為をした。性腺刺激ホルモンの過剰分泌が思春期早発を促したため、性欲が非常に強かった。
ヒミコの巫女たちを統率していたのは、ウズメという不思議な女性であった。彼女は北九州の出身ではない。本州から巫女の集団を率いて邪馬台国に流れてきた。顔つき、体つきが北九州の人間とは違う。ウズメと彼女の巫女たちは背が高く四肢や指が長い。眉が太く、二重まぶたである。耳たぶが大きく、鼻は広く、唇が厚い。邪馬台国の人間は、背が低く四肢や指が短い。眉が細く、切れ長の一重まぶたである。耳たぶも小さく、鼻は細く、唇が薄い。
ヒミコが四十才の頃、ウズメはヒミコに拝謁した。ヒミコはひと目でウズメを気に入り、彼女の後宮の巫女の統率を任せた。ウズメの連れてきた巫女たちも宗族から献上されたよりすぐりの美貌を持つ侍女たちと共にヒミコに仕えた。ヒミコはウズメに自身の姓である「天」を与え、「天鈿女命(アメノウズメ)」と名乗らせたのである。ヒミコとヒミコの宗族以外で「天」を名乗らせたのはウズメ以外にはいない。
なぜ卑弥呼(天照大神Ⅰ)はウズメに自身の姓である「天」を与えたのであろうか?それは卑弥呼がウズメに自身と同等の能力がある、ということを感じたからである。たぶん、ウズメにも海馬と松果体異常があったのであろう。卑弥呼は敵に回したら勝てないかもしれないウズメを取り込むために自身の姓である「天」を与えて手懐けようとしたのである。
それから三十年、ウズメはヒミコに仕え続けてきた。ヒミコの美貌が徐々に崩れていくのに対して、ウズメは年を取らないようであった。ヒミコは七十才、ウズメは五十才となった。
海馬の働き
脳は体重の2%程度の器官だが、多くの栄養と酸素を要し、心臓からでる血液の15%が脳に運ばれ、また肺で吸収され体で用いられる酸素の20%を消費する。
海馬はエピソード記憶を一時的に保持する器官だ。 エピソード記憶とは個人的体験や出来事についての記憶である。人間が体験したエピソードは一度海馬に蓄えられ、 寝ている間に少しずつ大脳皮質に移動するようだ。
臨床医学では即時記憶・近時記憶・遠隔記憶という用語が用いるが、海馬はこの中の近時記憶を行う器官である。心理学でいう短期記憶は即時記憶に、長期記憶は近時記憶と遠隔記憶に相当する。
動物における海馬の典型的な用途は地図の記憶だろう。げっ歯類は、自分が経験した迷路の地図を海馬に記憶する。地図は結局、迷路内を探索した際のエピソードの集合ということなのかもしれない。
卑弥呼の従姉妹、臺與(台与、とよ)
ヒミコは彼女の父の年の離れた弟の娘の臺與(台与、とよ)にも自分と同じ霊力があると感じて、臺與を引き取り、鬼道を教え始めた。臺與は十二才であった。ヒミコは、臺與の身の回りの世話と巫女の舞などの教育をウズメに任せた。
血のつながった従姉妹の前で、ヒミコは怪しげで淫靡な鬼道の術を見せた。臺與は内心で老婆の見せる行為に非常な嫌悪感を感じたが、ヒミコには気取られないように努めた。臺與が本心を話せる相手は、ウズメしかいなかった。
ヒミコは、挿入以外のあらゆる性行為を実弟のスサノヲと行った。そして、スサノヲにウズメをはじめとする巫女たちと交尾することを命じる。行為が終わった後、老婆はスサノヲの一物を舐めあげ、スサノヲに突き上げられてボロ雑巾のようになった巫女の性器に吸い付き、スサノヲと巫女の精液と淫水の混じったドロドロのものを飲み干し体になすりつけた。高坏に精液と淫水を集め、臺與の体に塗りつけ、中国より渡来した荼枳尼天像にも塗りつけた。
やがて、ヒミコはトランス状態となり、邪念が憑依する。ヒミコ自身の想念と邪念が絡みつき、それを呪詛を行う相手に投射する。ヒミコの想念の片々を投射された相手は、想念が脳を支配し、脳器官からでたらめな内分泌物質の分泌、或いは抑制指令を出す。また、海馬の短期記憶を改竄して、実際に起こっていない外部記憶を作り出した。ヒミコの想念を投射された呪詛の相手は、幻影を見、やがて発狂して死に至った。
古代の日食
太陽が日中突然消えてしまう皆既日食は、古代の人々にとって天変地異であり脅威だった。古代の中国では天変地異は政治の上で非常に重要な事件であり、詳しく調べられ記録もたくさん残っている。中国を治める天より与えられた「天子」だから、天の声に従って国を統治しないといけない。そのため、天文官という専門職も設けられた。
太古の日本は中国の先進文明の恩恵をまだ受けていないアニミズムの世界で、日食・月食を天文学的に予報する科学力はなかった。しかし、例えば「卑弥呼」=「日巫女」、太陽信仰があって、太陽という絶対神から統治権を与えられていた。その太陽が日食で陰る、というのは、「日巫女」の力が削がれた、なくなったこととなる。
日食(1)、247 年 3 月 24 日
日本の歴史書に記されている日食の最初の記録は、日本書紀の「三月丁未朔、戊申日有蝕尽之、日有蝕尽之(三月の丁未の朔、戊申に日、日蝕え尽きたること有り)」である。西暦628年4月10日(推古天皇36年3月2日)だった。
しかし、推古帝の前の時代、西暦247年3月24日、248年9月5日とたった一年半の期間で、二度も日本に日食が起こったことがあった。
247年3月24日の時は、アフリカから朝鮮半島まで、中国(魏)の洛陽や長安では夕方、皆既日食が見られた。日本では、すでに太陽が沈んだ後でのことだった。しかし、部分日食は日没前に始り、その欠け具合は西にいくほど大きかった。近畿では日没時に半分欠けたが、北九州では八割くらい欠けた。地平線近くで欠け始めて、細くなりながら地平線に隠れていく太陽を見て、当時の日本人は、明日はもう太陽が二度と昇って来ないのではないかという不安を駆り立てる光景だった。