#163_【近代化遺産】対馬が要塞化した伏線となる出来事
前回の記事で、いきおいで近代化遺産の紹介をはじめると宣言してしまいましたf^_^;)。
本当はもっと早く始めねばならなかったのですが、紹介する順序をどのようにするのかで悩んでいました。
まずは、時系列で時代ごとの特徴を説明してから個々の砲台を紹介するのがいいのか、それとも推しの順番で砲台をひととおり紹介してから、歴史的な特徴を紹介するのがいいのか、と。
本として読むなら前者なのかとも思いましたが、お客様をガイドしての反応を見ていますと、先にチマチマ理屈を説明するよりも、強烈な絵面の砲台をいくつか見てもらってから歴史の話をしたほうが、興味を持って聞いていただけているように感じますので、まずは手持ちの資料で説明できる砲台を、片っ端から紹介していきたいと思います。
ということで早速…
と思いましたが、なんで対馬にやたら砲台が造られたのかという、建造前の時代的背景にだけは触れておきたいと思います。
海は世界とつながっている
現在では、「国境の島」として紹介される対馬。
朝鮮半島が肉眼で見える位置にあり、韓国とのつながりだけが注目されますが、対馬の先にあるのは朝鮮だけではありません。
日本史に登場する他国が絡む出来事を見ていきますと、鎌倉時代の元寇はモンゴルからの襲来ですし、豊臣秀吉の朝鮮出兵はその先の明の征服だったと考えられています。
そして、対馬にやたら砲台が造られたのは、ロシアと関係しています。
何を目的としていたのか
万関運河が造られた経緯の中で、日露戦争を見据えてということに触れましたが、日露戦争の伏線となる出来事が起きたのは、幕末まで遡ります。
当時、世界全体ではイギリスやフランスがアジアに進出しているような状況でしたが、ロシアは緯度が高い場所に位置するため、「不凍港」を獲得すべく南下政策を採っており、その流れで対馬に目を付けたと考えられています。
1861(文久元)年2月、ロシアの軍艦が浅茅湾に出没し、尾崎に停泊した後、芋崎を約半年間占拠しました。
そのさなか、対馬藩が管理していた大船越を不法に通過しようとしたロシア兵と諍いが起き、立ち向かった農兵の松村安五郎は銃殺され、番をしていた役人の吉野数之助は捕虜としれ捉えられる、痛ましい事件も起きています(大船越事件)。
相手は大国ですし、貿易を縮小させられ財政基盤が脆くなった対馬藩ではなすすべもありませんので、幕府に助けを求め、外国奉行の小栗忠順が派遣されます。しかし、それでも効果がなく、日本駐在の英国公使ラザフォード・オールコックがイギリス艦を対馬に派遣して折衝した結果、対馬から退去しました。
ちなみに、イギリスとは、その後日英同盟を締結しますので、イギリスは日本にとっていい国だと思われる方もいらっしゃいますが、実際のところイギリスは前の年に対馬の測量を終えていたともいわれています。
おそらく、イギリスからしてみたら、国際世論の動き方に注意を払いながら、ロシアが力を持たないようにするための判断をしたにすぎなかった、と思います。あくまで外交は国益に則って行われるものです。
仮にイギリスが、このどさくさに乗じて対馬を占拠しても、国際世論の批判をかわしきれると判断していたら、対馬は香港みたいになったかもしれません。
権力者が明治政府に移りますが…
小栗忠順という人物は、横須賀製鉄所の建設など、近代日本の礎となるものを遺したといわれる人物で、ポサドニック号事件を受け、対馬を直轄領にすることを提言していたそうです。
しかし、薩長の視点で見ると目の敵だったようで、最期は薩長軍に斬首されますし、世間一般では、近年まで功績に対して著しく低い評価をされてきました。
小栗はそのようなぞんざいな捉え方をされていながらも、伊藤博文や山縣有朋も1886(明治19)年に対馬を視察して重要性を認識し、それが竹敷要港部の設置をはじめ、対馬の要塞化へとつながっていくわけですから、なんとも皮肉なものです。
まとめ
つまるところ、誰がどう言おうが、対馬は軍事戦略上重要な場所だったということです。
それだけに、日本という枠組みで捉えたら単なる辺境の地としか思われない場所に、先端の技術や多大な資源が投下されたわけです。
いまとなっては、遺された近代化遺産の多くは、単なる廃墟にすぎないかもしれませんが、そのあたりを感じ取ってもらえるよう、紹介していければと思います(^^ )。