某オープンワールドゲームに"パクリ"を見出だす人々
某モンスター収集ゲームがポケモンに似ていると批判されているのを観測した。著作権は親告罪であるため類似性の判断はここでは議論しないが、このような批判をしている人の多くはかつてアズールレーンがリリースされたときに『艦隊これくしょんのパクリだ』と宣い、過去にはパーカーを着ている作品を『カゲロウプロジェクトのパクリだ』と騒ぎ立てたのであろう。こうした批判が生まれる背景には、物事を単純化して考えたいという脳の打算性が介在していると考える。
安直に『どれそれに似ている』とカテゴライズする意識の根底にあるものは、新規のコンテンツと対峙した際の情報処理として、自分の持つ狭い見識の中に存在する代表作 (と思っているもの) との共通項を見出す姿勢である。これは、フラットな視点で行う論理的評価を放棄していることに他ならない。
既知のコンテンツと紐づけて情報を処理することは、脳のリソースを節約するうえで有効な手段ではある。勉強の際にも、新たな数学の公式を1から覚えるよりも、既に知っている公式から導き出す過程を経ることでこれらを紐づけ、関連のあるものとして認識した方が覚えやすいこともある。英単語を、ある程度の類義語の塊として記憶する方が覚えられるということと同じだ。記憶力の省エネになる。
一方で、このような既存の枠組みに依存した情報処理の方法は、創造性や多様性の視点から見るといくつかの問題を孕んでいる。まず、新しいコンテンツが既存のものと比較される過程で、その独自性やオリジナルの価値が見落とされがちである。先の例で挙げた「某ゲームがポケモンに似ている」との批判では、ゲーム自体が持つ独立したストーリー展開やゲームプレイの特徴、キャラクターデザインなどが顧みられず、単なる類似点にのみ焦点が当てられてしまう。こうした評価は、新しいコンテンツの価値や創造性を公平に判断する上で、大きな障壁となり得る。
また、既存の枠組みに頼ることで、それら人々の受容性が狭まり、多様な文化やアイデアへの理解が非寛容になる。一例として、「カゲロウプロジェクトのパクリ」との声が上がった際には、パーカーを着用するキャラクターという一点の共通性によって、他の数多くの要素が無視された。このように、単純なカテゴリー分けによっては、新たな作品が持つ多面的な魅力や独創性が適切に評価されず、文化的な多様性が損なわれる恐れがある。
この問題に対処するためには、彼ら一人ひとりが意識的にフラットな視点で物事を評価し、新しいコンテンツに対してオープンマインドを持つことが求められる。敢えて既存の枠を超えた視点で物事を見ることによって、新しい創造物が持つ真の価値や意義を発見できるようになる。このようなアプローチは、新たな発見や創造性の促進につながり、より豊かな文化的環境を形成するための一歩となるであろう。
新しいコンテンツに対する評価は、単なる類似性の追求ではなく、その独自性や創造性、文化的価値に注目することで、より深い理解と公正な判断が可能になる。このような視点の転換が、多様なアイデアや表現が生まれる土壌を築くことに貢献するだろう。