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幸福とはティースプーン一杯程度の積極性

 あいかわらず不調です。ことに、この数日は、朝起きたくありません。うつになって、24時間365日、聴こえない通奏低音のような希死念慮に悩まされていたときでも、「朝起きたくない」という感情にとらわれたことはなかったのに。なんでいまごろになってこんな事態になるのかなぁ(´・ω・`)ショボーン……という気分です(ちなみに……いまは「死にたい」はほぼ消滅しましたが、かわりに「死にたい」の下位互換である「消えたい」がたまーに出てきます)。
 原因のひとつとして考えられるのは、年末から、抗うつ薬を変えていること。それと、年があけてからは、抗不安薬も手放しました。これらの変更は、うつ回復の次の段階へとあがるために必要なこととして、からだからの要求を汲んでおこなったことですが、まだ、新しい状況にたいしての調整が、びみょーにまにあってないようです。

 今朝も、ダメでした。昼ちかくなってきて、起きなきゃ、とおもったけど、イヤでした。ゆううつな気分のまま、さすがに、新しい抗うつ薬を止めるべきか、と考えました。と、即座に、それはまかりならぬ!、とでもいうような、ガンとしていうことを聞かないような感情に、脳みそを突き上げられたような気がしました。
 もうこれはしかたありません。新しい薬を飲みながら、次へステージアップする。それが、からだの意思です。「自分」はそれにしたがうのみです。

 去年一年は、夫と派手に喧嘩したり、暴れたり、とにかく、ガマンはもうイヤだ!、と全身で表現した一年でした。自分では気がついていなかったけど、私は、なにかことがあったら「ガマンして過ごす」ことで解決しようとするタイプ、だったようです。だけど、そのガマンの矛盾が限界にきた。そして、しんぼうやガマンだけではこれ以上うつはよくはならない、という限界点にきたようです。
 じゃあ、「ガマン」の反対はなにだろう、それは、「幸福」だよなぁ……正確には、「幸福にむけて手をのばすこと」だよなぁ……みたいなことを、毎朝、朝起きたくないとしょんぼりしながら、ぼんやりとかんがえています。それから、このまま寝ていたい、でも、布団は干したい……みたいな感じで、しぶしぶ布団からでます。幸福というにはあまりにしょぼいものだけど、起きて、一晩着て湿気ったパジャマを湿気のないふんわり温かい服に着替え、夜もまた、ふんわり温かい布団にくるまる、どうもいまの自分にはこれが必要最低限度の幸福のようです。そして、このしょぼい幸福を得るためのささやかな積極性の発揮、これを原動力にして、毎朝かろうじて布団から抜け出しています。

 「不幸」は留まることはできるけど、「幸福」は得るもの。「幸福」は必ず「積極性」とセットになっている、というようなことを、朝起きたくない……と悩みながらつらつらとかんがえています。

 ティースプーン一杯程度の、ほんのちょっとの積極性をもっている、それが、幸福、ということなのだ

 というようなことを。
 ティースプーン一杯程度の積極性、とは、たとえば、夜中に鼻がムズムズしてきて、枕元のティッシュに手をのばしたけど見つからない、そんなときに、あきらめずに、もう3センチくらいがんばって手をのばす、くらいのものです。たいした分量ではありません。たいした分量でないけれど、私には苦手なものだった。積極性とは、対象に働きかけること、働きかけて現状を変革すること。ということは、幸福はガマンではなく現状の変革によってのみ得られるもの……それがたとえ、しぶしぶ寝床から起きて布団を干す程度の変革であってさえも。
 だけど、そーゆーのがなぜかできなくて、ガマンをえらんでいたわけですから。でも、ガマンはもうやめて、幸福になりたい、消極性ではなく、積極性を、それがうつから回復する次のステージの課題のようです。

 ティースプーン一杯程度の積極性。今日は、朝だけでなく、まる一日が「朝起きたくない」とでもいう、ゆううつな気分でした。このゆううつをなんとか打開したい、ならば、考えていることを書いておこう。と、そのために、ティースプーン一杯程度の積極性を発揮して、こんな文章を書いています。
 そして、気がついたらこんなに暗い時間になっていました。はやく、晩ごはんの用意をせねば。イヤだけど、ティースプーン一杯程度の積極性を発揮して起きて、なにか作ってきます。
 どうせなら、なにか美味いものを……無理のない範囲で、ぱぱぱッ、と。



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五百蔵ぷぷぷッこ / 140字のもの書き / Espansiva の中の人
いま、病気で家にいるので、長い記事がかけてます。 だけど、収入がありません。お金をもらえると、すこし元気になります。 健康になって仕事を始めたら、収入には困りませんが、ものを書く余裕がなくなるかと思うと、ふくざつな心境です。