うたもいのちもことのはも、それは自然に生えてくるもの ②《140字の日記 47 ×140字のnoteことはじめ+ 》
長くなったので、純粋に半分で切って投稿しています。
そしてなぜか、話が「肉まんうまい」につながっていきます。
前半はこちら↓。
まず、前半を読んでからこの記事を読むことをおすすめします。
ニールセンがバッハを深く尊敬し、同じ境地を目指そうとしていたことが、晩年のピアノやオルガンのための音楽からうかがえます。
ですが、ニールセンの音楽はあくまでも、「歌う身体」と「共に歌う誰か」と「共に歌うことをいざなうニールセン自身」に根ざしている。まるで歌と踊りの民族であるアイヌように、非常にプリミティブと言ってもいい。
言葉も、本来はプリミティブであったはずです。
なぜなら、ことばはそもそも呼吸でした。
呼吸から鳴き声になり、音声の多様性とメロディーをもつようになり、意志の疎通を図る手立てとなり、意思疎通の機能を極めるために「言葉」となり、さらには思考のための道具となった。
その成り立ちから考えて、自分自身、という身体を離れてはことばはありえない、ことばは「生きていることそのもの」のはずです。
ことばはいつも、あなた自身の体の中に鳴り響いている、「生きている」というメロディーであるはずです。
だけど、五百蔵がnoteの世界を想起するとき、身体や呼吸や世界に向けて半身を開いた感じとかといった、生々しくプリミティブなものが、想起できない。
「生きていることそのもの」、から遊離してしまっている。
そんなふうに感じられるのです。
以前、五百蔵はラピュタの「シータの一族とムスカの一族」、という例え方をしました。
いまでも、「noteとは?」と考えをめぐらすたびに、最終的にはこの対比が頭に浮かびます。
この動画は、ニールセンの生誕150年を記念して、ニールセンの故郷であるオーゼンセで実施されたコンサートの様子です(さすがに、この程度のデンマーク語なら、グーグル翻訳の力を借りればなんとかなります)。
歌われているのは、ニールセンのメロディーのなかでももっとも親しまれているもののひとつ、「Jeg ved laerkerede (ぼくはひばりの巣を見つけたよ)」です。
おそらくは地元の女性たちと思われるこの歌声は、お世辞にも上手いとはいえません。だけど、五百蔵は、この爆発的なエネルギーが嫌いではありません。
それどころか、もし、ここにニールセンがいたら、ステージの上に駆けあがって、満面の笑顔で、彼女たちといっしょに「ぼくはひばりの巣を見つけたよ」と歌いはじめたのではないか……そんなふうに思われてなりません。
この感覚は、例えるなら、「二十四の瞳」の大石先生が、12人の教え子たちと毎日のように歌を歌ってくらし、終生12人を慈しみ続けたこと、と同じなのではないかと思います。
でも、五百蔵は、noteのなかでは、
大石先生も12人の教え子も、
上手下手を飛び越えた爆発的なエネルギーで歌う誰かも、
つねに半身をこちらにひらいてウインクしながら歌にいざなうニールセンも、
いまのところ見つけられていません。ほんのすこししか。
まだまだ、さがし方が足りないのかもしれません。
ですがそもそも、そのような人はnoteでは少数派であるらしい、というのがいまの結論です。
・◇・◇・◇・
noteでは、どうしても、クリエイティブであろう、商業的に通用するものを目指そう、とする人が多いゆえに、人間と創作物の関係が、「小鳥と歌とそれをよろこぶ耳」というプリミティブでフラットで、それら自体が生命の発露として親密に関連しあっているもの、であることが難しいのではないか、と感じています。
なんというか、うっすらと加工品であることを感じてしまったり、どことなく気どりやぎこちなさを感じたりして、五百蔵にはいささか居心地が悪いのです。
この「小鳥と歌とそれをよろこぶ耳」の関係は、noteらしく表現すると、つまり「肉まんうまい」です。ていうか、いま、「あ、これ、肉まんうまいだわ……!」って、突然結びつきました。
だけど、「肉まんうまい」のよさを発見し、提起する鋭さはあっても、「肉まんうまい」にはなりきれない。
そして「肉まんうまい」はやはり、noteのメインではない。あくまでも、箸やすめのようなもの、ととらえられているように思われます。
それがnoteの現状で、ユーザーを「クリエイター」と呼ぶnoteの限界ではないかと思います。要は「守備範囲が違う」ということなのでしょうね。
五百蔵は「肉まんうまい」の記事はずいぶん前から目にしていましたが、「肉まんうまい」という言葉の意味するところがついさっきまで理解できていませんでした。
でも、理解できなかったのは、やはりnoteという場には「肉まんうまい」というプリミティブな成分が少ないし、位置付けが低いからだと感じています。
だけど、「肉まんうまい」を磨き上げて、磨き上げたことすら悟らせないような境地にもっていくのは、それこそ、ニールセンレベルのセンスと努力が必要です。
なまなかのことでたどり着けないのは当たり前だし、もしかしたら、五百蔵の眼も、それを見分けられるところまでたどり着けていないのかもしれません。
・◇・◇・◇・
いま、わたしは「書くという営み」のどのくらいをnoteに配分するか、考えているところです。これまでは、90%をnoteにつぎ込んできました。だけど、いまでは「肉まんうまい」の世界である別の場をもうすこし大事にして、比重を移し、noteを6割ぐらいに減らしたいと考えています。
なぜなら、
わたしはそもそも自由に歌う小鳥だし、
肉まんがうまければ「肉まんうまい」と半分に割ってニコニコとしながら誰かにさしだすニールセンでありたいし、
ニールセンのような、つねに誰かに半身を開いた人々にかこまれながら、
その人たちとわたしと、生きている喜怒哀楽のエネルギーをともにしながら、
その人たちのためにものを書いていたいからです。
「自分のため」と「誰かのため」がぴたりと重なる世界が好きだからです。
そしてなにより、その世界に住む人たちのことばには、noteに日々投稿される手の込んだ創作物の出来栄えをあっさりと吹き飛ばすくらいの「人生の凄み」があるのです。
これぞ野生の肉まんパワー!
その魅力は、何物にもかえられません。
だから、どちらかといえば「自分のため」「成功するため」に力点が置かれ、目立っているnoteの世界は、わたしは苦手なようです。ときによっては功利的で、小ざかしくすら感じられてしまい、疲れを感じてしまいます。
それを象徴しているひとつが、「毎日投稿ムーブメント」のような気がしています。
でも、そうはいっても、頑張って連続投稿の成果を出した人と喜びをともにすることは、むしろ手放しで大好きです。だってそれこそ五百蔵の生まれながらの立ち位置、「肉まんうまい!(≧▽≦)」ですから!
だけど、「毎日投稿ムーブメント」自体は「自分のため」や「成功するため」が色濃くて、そしてなにより、生命体として不自然で、自分がやろうとは思いません。
なぜなら、「歌は絞り出して歌うものではない」というのが五百蔵の信念です。
いつの間にか自然に連続投稿になっていた。でも、くたびれたから連続が断続になった。だけど、歌い続けていることだけは確か。
それが理想です。
そうはいっても、「肉まんうまい」だけで回っている世界には、「肉まんうまい」の素晴らしさを発見し、提起する鋭さが無いことも、そのような刻苦は必要とされていないのも、また確かなのです。
例えるなら、田舎の人は田舎のよさに気がつかないし、分析しようとしないし、する必要がない(「地域おこし」が課題とならないかぎりは)、ということと同じだと思います。
が、そもそも、その物足らなさが、五百蔵にnoteで書くことを目指させました。
ゆえに、五百蔵にとって、noteもまた、なくてはならない場であるのは確かです。
だけれども、noteもまた、唯一無二の場とはなりえない。「肉まんうまい!」の成分が、土にへばりついたような「生きている!」という実感が、足らなさすぎる。
歌があふれるから歌う、という原理で歌う自然の小鳥が、いったいどこにいるのか、ここではわからない。
それもまた確かです。
・◇・◇・◇・
まるで。
「私は3つの意味で故郷がない人間だ。オーストリア人のなかのボヘミア人、ドイツ人のなかのオーストリア人、そして全世界のなかのユダヤ人として」
と嘆じたマーラーのように。
五百蔵はどこを故郷としたらいいのか、まだ見つかっていません。
ニールセンの音楽の中にしか。
わたしをとりまく自然と小鳥の歌の中にしか。
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