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文章と自分のリハビリ ⑥(2022年 9月上旬)
只今、こころの充電中につき。
一日一題、お題にそってものを書いて投稿するサイトに出したものより。
そこは、私にとっては、note から逃避した隠れ家、です。だから、どこのサイトかは探しに来ないでください。
だけどもしどこかで見かけたら。声をかけずにそっとしといてください。いにしえの仮面舞踏会では、仮面の下の顔は知らぬものとして、互いが手を取り、ダンスしていたように。
・◇・◇・◇・
① 玉虫って、とにかくキレイだよね
ひと夏にいちどだけ。玉虫に遭遇する。今年はベランダで。朝、掃き出し窓をあけたら、足下にいた。まるでクレオパトラのブローチででもあるかのように、鮮やかな緑の虹色をして、死んでいた。
自然界の奇跡としかいいようのないきらめきは、夏の強烈な日差しを浴びた照葉樹の緑の完璧な擬態。こそりともうごかないからだは、ただ太陽の遷移にあわせて、金属光の反射がうつろう。
細長い硬質の胴体のしたに6本のあしをきちんと折りたたんで。それは、威厳すら備えた、静かな死、だった。
これを書くちょうど数日前に玉虫が……だったので。とにかく印象がきょーれつだったので、きょーれつな印象のままに書いてみました。
玉虫を見るたび、毎回おもうのですが、
あそこまでキレイだと、
発作的に、玉虫厨子、作りたくなるッす!
その気持ちをあらわすのに、「クレオパトラのブローチ」とか「自然界の奇跡」とか、あと「完璧」ということばはどうしてもつかいたかった。
また、玉虫の緑のキラキラがよく映えるのは、おそらく、夏の日差しが強く、明るく、黄色味が少ないせい、だとしたら、日差しが陰る冬場でも夏同様に映えるものだろうか、と考えました。そこで、夏だからこその美、ということが伝わるように「夏の強烈な日差しを浴びた照葉樹の緑の完璧な擬態」という比喩をあみだしてみました。
今回、作文しながら、あっ……、と気がついたことは、
まるでクレオパトラのブローチででもあるかのように
の太字にした部分、「〜ででもあるかのように」の使い方。
最初はなにもかんがえずに
まるでクレオパトラのブローチのように
としていたのですが、違和感がありまして。
これ、よくよく考えてみたら、「〜のように」だと、実在するものに例えているかのような印象があるんですよね。つまり、「クレオパトラ関係の遺物に、玉虫のような形状、もしくは、色彩のブローチが存在する」という前提でなされている例え、ということになっちゃう。
だけどこれは、「ひょっとしたら……そーゆーのもありそうだよね」という空想なわけですから、「〜ででもあるかのように」のほうが適切かと。
じゃあ、「〜でもあるかのように」だったらどうなんだろう? なんとなくアリのような気がするけど。
さらに、「〜であるかのように」だったらどうなんだろう? びみょうにちがってくる気がします。
だけど、ちがいがうまく説明できません……もどかしや〜。
② ネタの出どころは《プープーTV》
東京のとある駅の構内で、君は柱の一本をゆびさした。
「ほら、見て!……ここ!」
そこにぽつんと、渦巻きの模様があった。
「これ?」
いぶかしがって顔をちかずける僕に、君はいった。
「そう。これがアンモナイトの化石」
「……つまり、ここに貝殻がうまってる……?」
「うん。そうだよ……この大理石は、かつては海の中にあったんだ……」
この、淡いピンクの柱は石で、かつては海の中にあったって!?
とたんに僕の耳は潮騒につつまれ、視界は藍色にそまった。口からはぶくぶくと泡が漏れているような……気が、した。
すると、すでに僕は太古の海から現代の東京にかえっていた。人が多く。うるさく。気がせかされる。現代の都会に。
「もうこの石も採掘されてないんだ。それに、この駅は近々改修されるそうだし」
「じゃあ、これで見納め?」
つるつると桜色した柱の表面を、いとおしそうになでながらうなずいた君の表情は、さみしさでいっぱいだった。
たしかこの日も、他の人とネタかぶりしたくなくて、こんな話にしました。
ネタの出どころは、デイリーポータルZ が YouTube で運営しているチャンネル《プープーTV》です。
街歩きしながらうんちくを垂れまくったほうが勝ち、みたいな企画だったと思います。どこかの駅の構内で、「ここに化石が……」みたいな話題が出てたのが印象に残ってました。そのとき、石の採掘がもう終わってるとか、駅を改装するとかそんな話が出てたような記憶があり、石の価値がわかる業者が工事をしなかったら、ウン億年の歴史もただのガレキあつかいか……とわびしく感じたのを覚えています。
物語中のこのふたりは、桜色の大理石の産地出身で、「君」のほうが石と化石マニア。改修工事間近の駅のアンモナイトの見納めをするためにわざわざ上京した、という設定です。
そーゆー設定までさりげなく盛り込みたかったのですが、今回はようしませんでした。
③ 「シンデレラ」を若干だけ魔改造してみた
ああ、なんていまわしい。時を告げる鐘!
シンデレラはいまやすっかりみすぼらしいもとの姿にかえった自分をながめまわした。つややかな絹のドレスもなにもかも、一切合切が消失し、ただ、ガラスの靴のみが、彼女に残されていた。しかもそのガラスの靴さえも。彼女の手もとには、片方しかなかったのだ。
(以下省略)
お題は《時を告げる》……ってきたら、「シンデレラ」の5文字以外、なにが浮かぶというんでしょう! 絶対みんな「シンデレラ」が思い浮かんだうえで回避したとおもうんですよ。
でも、私は、いちばん気になるネタを回避して2番手のネタを……なんてのは、どうも脳みその機能上できないみたいで、悩んだすえにド真ん中、いきましたッ!
児童文学の「それからのシンデレラ」は、幸せな結婚をしたはずのシンデレラが、王子と離婚、という衝撃の事件で幕開けをするらしいですが(なんだかんだで、読む機会を逸しているのです……)、この文章でも、魔法が解けたボロ着に引け目を感じながら家に帰る……なんてしおらしさの一切ないシンデレラを描いてみました。
それと、「シンデレラ」って、唯一魔法で消えない「実物」であったガラスの靴が証拠になる、っていうのがなんだか哲学的思考をそそりませんか? そこへのこだわりも、すこしもりこんでいます。
この物語は比較的長編になったので、また別に、独立して投稿します。
④ なおもそこにこだわるかッ!?
ヤバイ……そろそろ時間だ。オレは腕時計を見た。
と、思わずガン見した。
秒針が踊るように動いていた。謹厳実直に、毎度毎度等しい間隔で動いていた秒針が……踊っていた。
まるで、釣りたての魚を捌いたときに魚体のなかでうごめいていたアニサキスのように、予測不能なぐにゃぐにゃとした動きをくりかえしていた。
こんなことで正確に時刻を表示できるのか? オレはぐるりを見回した。たしか時計屋の看板がアナログ時計だったはず、だが。
看板の時計は、ダリの絵のように溶けていた。
そのときやっとオレは気がついた。
オレがシュールレアリズムの世界に閉じ込められているらしいことに。
それでもオレは正確な時刻を知るために時計を探した。アナログ時計では話にならない。デジタル時計、デジタル時計は何処かに無いか!……と。
お題は《踊るように》。なにもでてこなかったので、「絶対踊ったらイヤなものってナニ?」って考えてみました……そしたらやっぱり、時計の秒針、じゃないかな、って。
秒針が踊りだしてアナログ時計が機能しなくなった世界もエグいですが、その世界に適応するよりまず正確な時刻を知ることにこだわったサラリーマン風の登場人物は、もっとエグいです……自分がつくりだしておいてなんですが。だけどその一方で、あらゆることが不確かな謎の世界で、なにが確実なのかまず確かめないとパニックになる、っていうのも痛いほどわかります。
ちょうど、新型コロナウィルスが日本でも蔓延しはじめて、症状も治療法も解明されてないまま不安にとりかこまれていたころが、そんな感じでした。とくに自分はそのとき、コロナとおぼしき謎の呼吸器の病気で死にそうになっていました。検査もしてもらえない(微熱しか出なかった)、診断もつかない(医者には、気の持ちよう、といわれた( TДT))、そのうえ経験したことない症状しか出ないから、打つ手の判断も手探り、ななかで、なんとかこの、息をするたびに肺が痛い、というしんどい状態とたたかって生きのびていかねばならない……とかって、一般人には無理ゲーすぎる……と、絶望的な気分になっていました。
だけど、4月になって庭の雑草が花開きはじめたのを見て、「人界のパニックにかかわらず、季節はいつもどおり運行している」というのを確認して、それが落ち着きを取り戻すきっかけになりました。
不確かで不安定な世界の中でも道は開ける。なぜなら、すでにわかっていることを底辺から積み上げて未知に挑んでいけばいいからだ。そして、われわれ人類にはすでに知識と経験の蓄積はある。
あのときコロナに挑んだ科学者たちは、そんな心持ちだったはずです。科学者のやり方で世界を読み解くことが、すなわち、「季節が来れば花が咲く」という当たり前のことを土台にして、新型コロナウィルスの登場という新しい事態を編み込みながら、底辺から世界観を組み立て直していく、ということが、こんなに心強いものであるとは。このときはじめて知りました。
……にしても、科学の力で解明したことが、「現在の科学の到達点では、新型コロナに太刀打ちできません。ぴえんこえてぱおん」にならなくって、ほんとによかった……。
あの登場人物は、日本の企業戦士のアイロニーであると同時に、そのときの経験も、しっかり反映しています。
これはいつか取り上げたい題材だったので、機会がめぐってきてラッキーでした。
⑤ 親の世代の懐メロが好きだ!
ついに、ネタ切れです……
柳につばめは あなたにわたし
胸の振り子が鳴る鳴る 朝から今日も
お題を見てからずっと、サトウハチロー 作詞 / 服部良一 作曲のこの歌がアタマのなかでながれっぱなし。
生まれる前の歌なのに、懐メロ番組で聞いて、子どものときから大好きだった。
春に渡ってきた燕が餌を求めて飛び交う季節、梅雨入り前後のしっとりした空気のもとで、緑潤う柳の立ち並ぶ川岸を散歩しているハイカラな洋装のカップル、ってイメージかなぁ。
「胸の振り子」はきっと恋心のドキドキで、それが「朝から」もうすでにドキドキで、さらに、「今日も」ってダメ押しがくるなんて。もう毎日心臓、ドキドキしっぱなしじゃん。どんだけ初々しいんだか!
このおふたり、腕を組んで銀ブラ、とかしたことあるのかしら……キッスももしかして、これから、とか?
こんなに妄想の振り子がドキドキ胸で高鳴るのに、柳と燕という伝統的な取り合わせのおかげで、水墨画のように抑えのきいた簡素な筆遣いの映像が目に浮かぶのが、レトロチックでめちゃめちゃお洒落。
YouTube でさがして、ひさしぶりに聴いちゃおう、っかな。
ネタも切れたし、エネルギーも切れたし、ついに、世間話をすることに逃げた日です。
エネルギーが切れたら、自分の内面に入り込むのも無理だし、なにか空想をひねり出すのも無理だし。すでに頭や胸の中にあるものを書き写すしかできなくなるんですね……つくづく。
さらにこの日は、「お題の文言は、変形せずにそのまま文章中に使う」というマイルールをやぶってしまいました(お題は《胸の鼓動》)。
ほんま、エネルギーがきれると、外界とか枠組みとかに、まったく適応できなくなりますね。どんどん、他者そっちのけのひとりごとと化していきます。逆にいうと、文章を書くって、他者に対する適応に次ぐ適応、なのかもしれません。そんな視点から、書く、という行為を見直してみるのも面白そうです。
そういえば、一時期、「自分は分かってるけど他人は知らないこと」をいちいち説明しながら note を書くのがめんどくさくてたまらないときがありました……そのころって、よほどメンタルが疲れてたんですね。きっと。
それはともかく。いま、テレビでは「懐メロあつかい」で自分が子どもの頃のアイドルの歌謡曲とか、小室ファミリーとかでてくるので、びっくりなのです。自分からしたら、これらリアルタイムで聴いていた曲は、いまだにリアルタイム感がしていて、これらが「懐メロあつかい」というのが腑に落ちてないです。
また、そうやって新しい楽曲が懐メロ化してゆくせいで、それより昔の歌が放送から消えていくのが、さびしいです。「胸の振り子」、「青い山脈」、美空ひばり、坂本九、等々、私はどっちかというと、親の世代の懐メロのほうに懐かしみを感じるし、それらの歌には、次の世代に引き継ぎたい名歌、すぐれたメロディがたくさんありました。歌い手も、圧倒的に上手な人が多かったですしね。
文化の伝承としての懐メロ、っていう視点もあったらいいのにな、と思います。そんな思いもあり、若い世代にこの歌の、レトロであるがゆえの魅力が伝わったらいいな、と書いてみた世間話です。
最後になりますが、Keita Onishi さんが「胸の振り子」をイラスト化しているがすごくステキなんです。
その世界観がまさにドンピシャ。胸のハートを撃ち抜かれちゃいます!
・◇・◇・◇・
キリもいいし、それなりに5000文字こえたし。
今回はここまで。
こんな感じで、われながら気に入った文章と、自己分析的なものを、つれづれに書いています。
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![五百蔵ぷぷぷッこ / 140字のもの書き / Espansiva の中の人](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/7818814/profile_f8c73301bec7eada6a7073cd1e2ae72c.jpg?width=600&crop=1:1,smart)