キラーコンテンツは、自分自身《140字のnoteことはじめ+ 43 》
でも、なんだかんだいったって、ひとりひとりの自分自身がキラーコンテンツ。ついてる目鼻口は同じ数なのに、配置についてはひとりひとりが全く違っているようにね。ただ、空に見つけた虹はひとりひとりが全く違う状況で見つけたはずなのに、違いをうまく言葉にできないから平凡になってしまうんだな。
《140字のnoteことはじめ 》のマガジンもあります。
自己紹介的なマガジン、《五百蔵のトリセツ》
https://note.mu/beabamboo/m/m585d8928b5cc
#日記 #エッセイ #コラム #note初心者 #スタートライン #小説 #短編小説 #140字 #140文字 #キラーコンテンツ #梅原真 #カイゼン
まぁまぁまぁまぁまぁまぁまぁ……以前には↓、「初心者ですから。パンダみたいに人が寄ってくる、すげーキラーコンテンツ、持ってませんし」と書いといて、今回のコレはなんだ!、と怒らないでください。
実は、五百蔵、ちょっと引っかかってたことがあって。
キラーコンテンツって、「無人島でひとりで暮らしてみた!」っていうくらい、極端じゃないといけないんですかね?
……っていう、疑問がありまして。
いや、たしかに、まぁ、読みたくはなるけどねぇ……
でも、それだと平凡な人生を歩んできたわれわれが、なんだか救われない気がする。
キラーコンテンツって、ようするに、「なんかコレ、今まで見たことない、だからすげー心がひかれる」って感じる人が山盛り湧くようなコンテンツだと思うのですが、「今まで全然見たことない」ものって、結局、「あかの他人の人生そのもの」だと思うのです。
それが無人島生活だったら、一目で「見たことない」ことがわかるから、人が集まりやすい。
それが、日常の雑感になってくると、差異が日常性にうずもれてしまって見えにくいから、なかなか人が集まらない。
でも、何回も接するうちに、じわじわと違いが見えてきて気がついたら虜になっているブログって、たしかにありますよね。
この、
「ぱっと見キラーコンテンツだとわからないけど実はキラーコンテンツな日常」
という現象を
「島じゃ常識 さざえカレー」現象
と呼ばせてください。
わからない人は、まず、さざえカレーをググってくださいませ。隠岐の海士町のカレーです。
そして、こっからが大切。このコピーを作ったのは、梅原真。デザインで地域おこしをする男。五百蔵が、「誰でもいいから好きな人にひとりだけ会わせてあげよう」と言われたときに、
「明和電機の土佐社長と嵐の松潤とそれから……梅原真!……のなかから1人……うお〜〜〜〜ムリっ!」
と三つ巴で選ぶことができなくなって悶え苦しむひとり。
そして、このコピー、島の人たちがふつーにカレーにさざえを入れていて、それどころかむしろ「肉がないからさざえを入れた」カレーなんて恥ずかしいほう寄りのふつーだと思っていて、
「でもそれが実は珍しいんだってば!」しかも、「うらやましいんだってば!」
と、島のみんなの価値観をひっくり返して海士町のキラーコンテンツにしてしまった、という価値観のどんでん返し的コピーなのです。
そんなわけだから、
キラーコンテンツを作るのは、平凡のなかの非凡に光を当てて、表現としてすくい取ることができるかどうかにかかっている、
と五百蔵は思うのです。
例えば、梅原真マジックの例をもうひとつあげると、高知県黒潮町の砂浜美術館。
町おこしの人集めのためになにかハコモノを作ろう、ではなく、この砂浜自体がこんなにも素敵なのだから、このままでいいじゃない、となにも手を加えずに、Tシャツとか砂浜にひらひらしていたらうれしいものを砂浜いちめんにひらひらさせる。
はじめは率直に言ってアホかと思ったけど(だいたい、五百蔵はまだコドモだったし)、それがバブル絶頂期の1989年からいままでずーっと続いていて、いまだに人気があるんだから。
だから、結局はなにごとも、視点とくみ取り方、なんです。
だから、言うなれば、全員がキラーコンテンツの持ち主なのです。どんなに「私は平凡だ」といい張っても、その平凡さすら十人十色なのですから。
キラーコンテンツなどどこにも無い、などと卑下することは、なにもない。
ただし、十人十色の違いを際立たせることができるかどうかは、ひとえに「ことば」にかかっている。だから、見たこと感じたことを的確にことばにうつすことのできる日本語力は、みがき続けねばならない。
打ち上げ花火のようにどっと人を集めることはできなくても、言葉をみがいて独自の世界をつくって、細く長く人を集め続けて、累計したらバケモノのような数になる愚公移山的コンテンツ、そっちを目指したっていいんじゃないか、って思います。
・◇・◇・◇・
さて、この記事は5月の終わりに書き始めて、たくわえていた記事なのですが、最近、これもキラーコンテンツだよなぁ、と気がつくことがありました。
それはズバリ、「note運営のカイゼンのレポート」です。
先日、五百蔵は、note運営のカイゼンの素早さについて、ちょーびびったので記事にしました↓。
そして、この記事に神屋伸行さんからもらったコメント、
改善お知らせだけでも凄く楽しいコンテンツになっていますよね!
っていうのが、「実にそうだよな〜!」と思い、この楽しさをどう言いあらわすといいのだろう、とそのまま思考モードに入ってしまい、もらったコメントにスキのお返事するのも忘れてしまって(ごめんなさい)、何日か寝かせて、やっと見えてきました。
近所の建築現場で、木造の骨組みだったのがどんどん家らしくなっていくのを日々観察するわくわくに似てませんか?
はじめはスケルトンですらなかった骨組みが、家として形をなしていく過程もわくわくするし、木造の骨組みのなかで働く人を見るのもわくわくします。
通りがかりに目に入った現場の光景の一瞬がすべて、不可逆のかけがえのない一瞬で、明日になったらまたどこかが変化して、完成に向かっている。
ていうか、家として完成してしまったら、二度とは見られない光景なんですよ!
わくわくわくわくわく!
深津さんが発してくれるカイゼンのレポートもまさにこれだと思うのです。
深津さんのレポートから、noteがこれからどんどん、ユーザーにとって使いやすいものに変化していく過程を観察することができる。
noteの中の人たちが、カイゼンのために汗をかいているのが、ちらりとかいま見える。
それだけでなく、どんなふうにカイゼンしていったらより良くなるか問いかけてくれて、ちいさな不便もひろいあげてカイゼンしてくれて。
noteの建築現場は眺めるだけのものではなく、いっしょに作っていくものだ、とみんなを盛り上げてくれる。
これはもう、過渡期である今のnoteでしか発信できないキラーコンテンツだと五百蔵は思います。
でも、「ここが改善しました」「改善点があればお知らせください」なんてお知らせ、どこのサイトでも普通にやってることで、むしろ、そもそもは業務連絡ていどのものなのですよね。
それがここnoteでは業務連絡にならずに、キラーコンテンツと言ってもいいくらいみんなが注目する楽しいものになっている。
それはひとえに、深津さんの取り上げ方や、言葉づかいのセンスによるものだと思うのです。
そうだ、それと、忘れちゃいけない。カイゼンにかける情熱も。
もし万が一、無人島でひとりで暮らすことになっても、そこでの暮らしに情熱が無かったり、だれかに伝えることに情熱が感じられなかったら、どんなにものめずらしい体験も、永遠にキラーコンテンツにはならないでしょう。
やはり、キラーコンテンツをキラーコンテンツたらしめるのは、ものめずらしさだけではだめなようです。
平凡のなかの非凡に光を当てて、表現としてすくい取ることと、最後は情熱がものを言うようです。
オマケ。
http://business.nikkeibp.co.jp/article/campanella/20140910/271134/
の記事が、さざえカレーと砂浜美術館の話が両方載っていてすごくわかりやすいです。
そして、とどめの「たぬきの休日」。
参考までにどうぞ。