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文章と自分のリハビリ ⑦(2022年 9月上旬)

 只今、こころの充電中につき。
 一日一題、お題にそってものを書いて投稿するサイトに出したものより。

 そこは、私にとっては、note から逃避した隠れ家、です。だから、どこのサイトかは探しに来ないでください。
 だけどもしどこかで見かけたら。声をかけずにそっとしといてください。いにしえの仮面舞踏会では、仮面の下の顔は知らぬものとして、互いが手を取り、ダンスしていたように。

・◇・◇・◇・


① 蚊と平和

夏の夜の何がツライって、蚊になやまされることだ。一匹たたいても、また、一匹。まるで血液レストランの特等席が空くのを待っていたかのように、あらたな蚊がやってくる。それを、ああ、また来たか、とうんざりしながら、そしてときには、空振りして自分の顔をしたたかにたたいて痛い思いをしたりしながら、一匹一匹、手作業で退治している。

あまりに多い夜は、サイドテーブルにたたいた蚊をならべて、戦果を確認したりする。ひどいときには10匹ちかくならぶときがある。そのなかには、たたき方があまくて、再び飛んでいきそうになるヤツがいたりする。でも、まあ、ほとんどの蚊は即死、あるいは、瀕死だ。
たたいてもたたいてもいなくならないことにはうんざりするが、頑張らぬことには熟睡できないからしかたない。また今夜もか、また来たか、と一匹ずつ始末していく。

だけど、ときどき気がついてしまう。
また来たか、と思いつつ、頭のあたりをブンブンする蚊にねらいをすましているけど、たたきころされたあとで「また来た」蚊なんて、一匹もいないのだ。その証拠に、ほら、さっきまでの戦果がすべて、そこのテーブルのうえにならんでいる。いましがたも、飛び立とうとしたヤツがいた。だが、もうしわけないが、テーブルのうえで潰させてもらった。だから数に一切の齟齬は無い。

とにかく、どの蚊もこの蚊も、死んだら終わり。また来たりなんかできるわけないのだ。だけど人間様は、「また来たか」などとほざきやがって……エラそうに。
世界に一匹だけの蚊。世界に一つだけの命。
わかっている。そのかけがえのなさは。しかし。私は夜は静かに寝たいのだ。睡眠不足はとにかく健康に悪い。こっちだって、明日の元気がかかっているんだからな。
おい、そこの蚊ども。すまないが、永遠に静かになっていただこうか。

 これもいつかは note で書こうとおもってたテーマです。
 ベランダに洗濯物や布団を干したりして出入りするたびに、蚊もいっしょにはいってくるようで、夏の夜は毎晩、たたいてもたたいても数が減らない蚊に悩まされていました……遠い目。
 びっくりすることに、今年も去年も一昨年も一昨昨年も猛暑の影響で、真夏なのに蚊がほとんどいません。だからこの文章は、過去形での話、になります。蚊の羽音が気になって眠れない、という悩みがなくなったのは健康面ではありがたいのですが、このままで、マジで、地球、大丈夫か?
 ちなみに、この note↓を書いてたおかげで、一昨昨年からおかしかったことがふりかえれました。ささいなことでも、記録大事(ついでにいうと、常識超えの強い台風が来だしたのも、今から思えば、蚊の生態に異変が出だしたころからでした)。

 それはともかく、たかが蚊ですが、大量にやっつけていると、それなりに考える材料がえられます。
 たとえば、蚊の体はホントに冷たい、とか。蚊をたたくとき、ほっぺたと挟み撃ちにすると、ほっぺたの弾力のおかげで、蚊を潰すことなくやっつけられるときがあります。このとき、ほっぺたが蚊の形のとおりにへこんでいる感覚があって(それはそれでスゴイ)、さらに、そこがひんやりするんです。水と同じ温度、と表現するとピッタリくる感じです。変温動物って、こーゆーことか、と感じいる瞬間です。
 それと、蚊の捕捉率を上げるには、室温を下げればよい、とか。これは春先の出始めに使える技です。相手は変温動物なので、窓をすかして室温を下げると、てきめん、動きがどんくさくなります。

 だけどなにより、短時間で10匹前後、大量に生き物を殺める、しかも毎日、っていうのは「殺す」という行為の倫理について、イヤでも考えをめぐらさずにはいられなくなります。キレイに即死、もありますが、潰れる確率も高い。よっぽどの事故でもないかぎり、こーゆー死に方を免れてる人間はありがたい、って、ついつい思ってしまいます。さらに、足が千切れるヤツとか、痛そうによろよろ動いてるヤツとかもいて、死ぬるまでの苦しみを目の当たりにしたりもしますしね。
 よくいえば退治、だけど見方を変えれば、大量に痛めつけ、殺戮しているわけでして、なんらかの正当化がないと心理的につらいときもあります。そこはもう、寝ないとこっちも死ぬから、良質な睡眠確保のためにオマエらと戦う、って理屈になりますけど。

 先日のこの記事は、夜な夜なくりひろげられていた夏の蚊との戦いから考えたことを、平和とはなにか、というところまで敷衍したものです。


② note で書くのはなんのため?

いい歳していまさらなにゆってんだよ、と思わないでもないけど。自分って結局、特に突出した何かがあるわけでもない、歴史の流れの中のただのモブなんだなぁ……って自覚するときの喪失感といったら。
いくつになっても、一発逆転の可能性がゼロになるわけでは無いんだ!、なんて大風呂敷をひろげて強引に自分を鼓舞するなんてことも、さすがに無理だよ、って気分になってきたしね。

でも、逆に、他人の評価にかかわらず好きなことを好きなように好きなだけやればそれでいい、っていう、穏やかで、いつも愉快でいられる境地にはなりつつあるのかな。
だから、とうめんは、疲れ切るか飽き切るかどちらかするまで、ここでゴトゴトとなにか書き続けているつもり。

私らって、長い歴史のなかでは、どうせ、忘れ去られる存在だよね。そのことを思うと、いまでも胸を切りつけられるようなキリキリとした喪失感におそわれる。だけど、だからこそ、なんだよ。いまここで、お互いに忘れ難い影響を与えあっていけたら、それがベストをつくす、ってことなんだ、って思うんだよね。

 文章のできがいいわけではいけど、備忘録として。
 テーマの選択といい、文章のしまりのゆるさといい、つかれがたまってきてるな……と如実にわかります。

いまここで、お互いに忘れ難い影響を与えあっていけたら、それがベストをつくす、ってこと

 このひとことを忘れないようにしとこう……っと。


③ ころころした感じが好き

ないとこまるときがある。だけど、じゃまになるときもある。大きな紙のカレンダー。月の半ばになっても、先月の紙をめくり忘れてそのままになってることもよくある。ずぼらだからね。カレンダーは、ずぼらな人間には、スマホのアプリのほうが手軽で気楽で使い勝手がいい。
だけどね。つかい終わった紙のカレンダー。きれいな写真をきりとって、ハンドメイドで封筒をつくったりする。それをつかって、したためた手紙を送ったり、地元の新聞に投稿しておこずかいをかせいだり。ほんのちょっとだけだけど、暮らしをうるおわせてくれる。

銀行とか電気屋さんとか、あちこちで紙のカレンダーを配ってくれるようになるまで、あと数ヶ月だね。やっぱり、ないとこまるかな。来年用も、ステキなのが手にはいったらいいんだけど。

 お題の《カレンダー》については、まさに、ズボラだからスマホのアプリでいい、というほかなく。とはいえ、押入れとかから使い古しのカレンダーのきれいな写真がついたやつ、とか出てきたら、やっぱりときめいちゃうんですよね (〃ω〃)

 カレンダーに対して、必要とも不要とも断言できない、どっちつかずな心持ちが、全体的に文末が、「〜る。」とか、「カレンダー。」の体言止めとかがくる、ころころした文体を導き出してくれたのかな、とおもってます。
 書いた直後は、やっつけ仕事をしたような気分だったけど、あとで読み返して、このころころ感が好きになりました。


④ 「二番煎じ」の本意を痛感

ふと目が覚めるのは、だいたいいつも、夜明け前のまだ暗いうち。ねむれないまま布団でごろごろしていたら、むこうから新聞配達のバイクの音がやってくる。郵便受けを開ける音、閉じる音。エンジン音を高めながら、次の家へと去る音。そのうち遠くの幹線道路から、車が往来する音が聞こえはじめる。
私は、再度のまどろみをまちながら目をとじている。遠くの方で、音に音が重ね塗りされて、だんだんと濃ゆくなっていく。朝はいつも、まずは耳から明けていく。

 これは、反省会 m(_ _)m のためにここにペタっ。
 反省点はつぎの2点です。


 反省点  ① 事実誤認

 気がついたひともいるかもしれません。ふつーに考えておかしい点がひとつあります。
 それは、ここ。

 郵便受けを開ける音、閉じる音。

 新聞配達員さんは、その家の住民を起こさないよう、静かに配達してくれています。郵便受けにも、極力音のしない方法で新聞をいれてくれてます。だから、たいていは、郵便受けを開け閉めすることなく、差込口からそーっと、のはずです。
 じゃあ、この開閉音のイメージはどこからまぎれこんできたんだろう……と考えなおしてみたら、これ、夫が帰宅したときに聞こえてくる、郵便受けを確認する音で、夕方の音の景色でした。どうも、耳に集中して音の記憶を再現しているうちに、印象的な音の記憶がつぎはぎされてしまったようなのです。
 もともと投稿したサイトは、24時間でつぎのお題にきりかわるので、それ以降は文章を修正しないのをマイルールにしています。ですが、せっかく note で反省するなら、と修正をこころみましたが、この一文になりかわることができるような、あざやかな音の表現が考えつきませんでした。


 反省点  ② 二番煎じ

 これはかいてるときからすでに自覚があったのですが……この文章、二番煎じ、です。ほかにネタがでてこなかったのと、《夜明け前》というお題にたいして、「最近は4時とか5時にトイレにおきて、外の世界の音に耳をすましながら二度寝、という朝がおおい」っていうのがどうしてもあたまからはなれなくて、かくのごとくあいなりました。
 書いたのはひと月前のことになるのでさすがによく覚えてないですが、たぶん、疲れもあって、それ以上のものはひねりだせなかったんじゃないかとおもいます。でも、やっぱり、同じネタは使い回すものじゃないですね……書いててあまりたのしくなかったのを覚えてます。それに、書いた直後にも、劣化版だな、とおもいました。

 ちなみに、元ネタはこちら。以前 note で書いたものの一部です。

 でもね。先週だったかな、もうすぐ空が白むかというときに目がさめて、家のそばの草むらで盛んに虫が鳴いているのに、遠くの幹線道路からは早朝の出勤か配送か、車のゆきかう喧騒がうっすらと聴こえてきて。そろそろ、ここに新聞配達のバイクの音がかさなって、遠ざかっていくのかな……なんて想像してたら、ほら、まったくもって「イスファハンの市場」でしょ。
 音の風景って、層になって重なりながら別々に流れている。

 この最後の一文、「音の風景って、層になって重なりながら別々に流れている。」を情景としてかきおこしたかった、という気持ちもなきにしもあらず、だったのですが、結局この一文をこえる描写はできませんでした。
 二番煎じをなぜ二番煎じというか。それは、最初に淹れたお茶より味が落ちるからにほかなりません。今回の文章はまさしくそれでした。

 とはいえ、すきなモチーフって、絶対あるじゃないですか。私にとっては「夜明け前に耳だけすましながら二度寝する」っていうのはそのひとつのようなんです。だから、それを二度とあつかわない、っていうのはムリな話で、やはりスルメのように何度でも噛み締めたい。であるならば、同じことがらを何度とりあげても二番煎じにならずにすむには、異なる視点からながめ、違う切り口をしめし、新しい要素をつけくわえる、必要がある。
 ノリ的には、紅茶ならば、違う種類の茶葉とブレンドしたり、果物とかスパイスをつかって風味をつける、とかってことになるのでしょうか。ということは、この文章だと、布団のなかでごろごろする心地よさに焦点をあてて、もうすこしそれを前に押し出してみる、等の工夫があったら、ちがった結果になってたのかもしれません……。

 

・◇・◇・◇・

 

 キリもいいし、だいたい5000文字になったし。
 今回はここまで。

 こんな感じで、われながら気に入った文章と、自己分析的なものを、つれづれに書いています。

 

 

#文章と自分のリハビリ #メンタルヘルス #自己分析 #文章練習 #ひとりごと #エッセー #創作 #ショートショート

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五百蔵ぷぷぷッこ / 140字のもの書き / Espansiva の中の人
いま、病気で家にいるので、長い記事がかけてます。 だけど、収入がありません。お金をもらえると、すこし元気になります。 健康になって仕事を始めたら、収入には困りませんが、ものを書く余裕がなくなるかと思うと、ふくざつな心境です。