「怒っていいよ」と言われたら、あなたは今、なにに怒りたいですか。【問いを贈ろう】9月12日
PICES の問いを贈ろうキャンペーンに、勝手ながら note から参加して3週間目。またこれから1週間、「問い」に答える思考マラソン、がんばるぞー!
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9月12日の「問い」
この問いは、カッコいいことを答えるよりも、「自分の気持に素直になってみて!」というワークとして取り組むことをもとめている、理解しました。
なので以下は、たとえばカウンセラーさんなんかが、ほんとうに「この場では怒っていいよ」といってくれたら……というつもりでかいています。読みながら不快に感じる方もおいでるかと思いますが、あえて手直しはしていません。ご了承ください。
以上、怒涛の怒りの文字列でした。
こうやってドバっと吐き出すと、なんかホッと力が抜けますね。きっといつもこころのどこかで、この怒りを強引に抑え込んで、なにくわぬ微笑みをうかべてすごしているからでしょうね。
微笑んではいるけど、その裏では、私のこのしんどさを誰かちゃんと受け止めて……もう無理、助けて……と、毎日毎日号泣している。それが私の表に出さない真の姿なのでしょうね。
それと、食物アレルギーについてモヤモヤと渦巻いているさまざまな怒りのなかでも、私たちはもうすでに、自炊するだけで、へとへとです!、どうも、これがいちばんわかってもらいたいことのようです。
今回の問いは、私にとってはひとつのセラピーになったようです。
いまちょっと、涙にじんでます。
とはいえ、みなさんには大変な感情の怒涛におつきあいさせてしまいましたね。もうしわけありませんでした。
さて。
いまの世の中、「怒る」ということを忌避する傾向が非常に強いと思うのですが、私はその風潮に対しては、以前からなんとなく違和感を抱いていました。
いまこうやってぶちまけてみて、「怒り」というのは恐るべき感情の嵐を巻き起こす恐ろしいものだけど、「怒り」には、その背後に、支援がないゆえのしんどさや、分かってもらえない悲しみや、なんやかやの「切実な本心」がかくれているときだってある、ということに気がつきました(いちいちことわるのもバカらしいですが、コンビニの店員に理不尽にキレる客、のごときものはとうぜん論外です。これは単に人としての品位の問題です)。
個人個人が暮らしのなかでギリギリでこらえている「切実な本心」が、とあるきっかけで怒りとなって爆発する。それが社会的なものとなったのが、Black lives matter の大規模なデモ、#Meetoo のムーブメント、やや古くなりますが、「保育園落ちた日本死ね」……等々なのだと思います。
そう、これってなんだか……あの「鬼滅の刃」の鬼たちのようなものと考えられませんか。登場する鬼たちは、どうしようもない悲しい背景があって、それが鬼になるきっかけになっていましたよね。
「怒る」とは、場合によっては、
鬼の皮をかぶった、切実な《支援》の訴え
と理解すべきなのかもしれません。
すくなくとも、自分の育児の経験からはそうです。子どもが号泣しながら激怒するとき、そこにはかならず、耳を傾けるべき訴えがありましたから。だから逆に、子どもが怒りを表明したときは、傾聴のチャンス、とすら考えていました。
また、障害者の作業所の職員として、知的障害が重くて言葉が無い利用者さんにも対応した経験があるので、「言葉で詳しく説明できないがゆえに、怒ることで《イヤだ》と意思表示するしかない」ようなケースも見ています。
服がチクチクしようが、くたびれてるからもっと休憩したかろうか、仕事がうまくいかなくてもどかしかろうが、ぜんぶ「怒る」です。そして、こちらは、怒っているのは一目瞭然としても、一体なにに怒っているのかまでは、伝わってきません。当時は、もうこんな利用者さんはイヤだー!、としか思えませんでした。だけど、その人は、なにか気持ちを伝えたくって怒っていただけ。にもかかわらず、気持ちは的確には伝わらず、あげく、「そんなふうに怒ったらいかん!」と職員に叱られる……さぞやもどかしかったろう、といまさらながら、気の毒に思います。
「怒る」ことで気持ちを伝えるのは、切羽詰った挙げ句の最後の切り札。
どうしても気持ちを伝えたいからこそ、怒り、鬼になる。
……というふうに考えてしまうせいなのでしょうね……
私はいちがいに「怒る人」を否定したり、「怒ること」を排除したりするような気持ちには、あまりなれません。
いま、病気で家にいるので、長い記事がかけてます。 だけど、収入がありません。お金をもらえると、すこし元気になります。 健康になって仕事を始めたら、収入には困りませんが、ものを書く余裕がなくなるかと思うと、ふくざつな心境です。