第12回の7: 70年代初め。モモヨは裸のラリーズ、灰野敬二と邂逅する
高木完『ロックとロールのあいだには、、、』
Text : Kan Takagi / Illustration : UJT
ビームスが発行する文芸カルチャー誌 IN THE CITY で好評だった連載が復活。ストリートから「輸入文化としてのロックンロール」を検証するロングエッセイ
日曜の午後だった。自分にとって大人の街でしかなかった六本木の、当時はテレビ朝日通りと名付けられていた通りを目指して、地下鉄の駅を出て、S-KENスタジオを目指す。
1978年の5月は、ごくわずかであったこの国のパンク好きにとっても、時代の気分として、ファッションとしてのパンクは終わった感があった。ピストルズはもう実質的に解散していたからだ。
しかしロンドンにはクラッシュやシャム69、バズコックス、999、ジェネレーションX がいたし、ニューヨークにもラモーンズはいたから、音楽としてのパンク・ロックはあった。単純にピストルズが着ていたボンデージパンツやガーゼシャツがちょっと古く感じられた。
そんな時代の気分の中で、逗子から六本木へと電車を乗り継いで向かった自分は、ただただ終電を逃すまい、とだけ心に決めていた。
『パンク仕掛け99%』夕方4時から夜の10時までで6バンド出て800円。
当時外国アーティストが3000円の時代。
日本のロック・バンドのライブを見に行くのは、以前ここで書いた窪田晴男のいたSLAVE以来で、この日の前情報は紅蜥蜴というバンドが新しくなって評判が良い、ということと、NYにいた人たちが作ったバンドがすごいらしい、ということ(それがフリクションだということはこの日、知る)。
角を曲がって目的地に近づくと、遠くから見てもわかるような感じで、ガードレール付近に黒い服を着た人たちがたむろしている。群れの中で一際目立っていたのが、ラモーンズのディー・ディー・ラモーンそっくりの風貌の男だ。
多分自分はじーっと見てしまっていたのだろう。彼は僕に一瞥をくれてから、モップヘッドを振りながら目の前のビルのドアを開け、階段を降りて行った。
(入口はこっちだぜ)
そんな風に言われた気がして、あとをついて恐る恐る中に入る。階段を降りて開けたドアの奥は銀紙が壁一面に貼られ、さながらイメージはアンディ・ウォーホルズ・ファクトリー。人の入りはまあまあ。ステージもないのだが、全く見えないという感じでは無い。
ライブはスピードというバンドから始まる。ギターの人がカッコ良くて目立っている。徐々に人がかなり入ってくる。僕と待ち合わせしていた玉垣くんもようやく来る。
2番目か3番目に紅蜥蜴が出た。ステージでベースを持っているのは入り口にいたディー・ディーだ。
バンドが音を出した瞬間、当時日本のロック・バンドが多く出ていた『ぎんざNOW!』に出てきても良いようなポップなムードが、若干モノトーン気味な会場の雰囲気を一変させる。
テレビに出るバンドと決定的に違うのは、あの頃『ぎんざNOW!』に出ていたバンドのほとんどがベイ・シティ・ローラーズか歌謡ロックかシャ・ナ・ナかハード・ロックなのに対して、紅蜥蜴は基本ロックンロールなのにもかかわらず、ギターはカッティング中心でリフがシンセサイザーという新しい何か、といった点だった。そしてボーカリストがとにかく目立っている。ウルフカットで表情豊かに歌いながら、途中入場してきたキレイ目なお姉さんにも手を振る。逗子の少年には刺激的な一瞬であった。
このライブのあと、紅蜥蜴はLIZARD(リザード)に改名する。
そのライブから45年近い歳月が過ぎた。
モモヨさんとは何年か前にリザードのボックスが出た頃、オート・モッドのジュネの計らいで復活ライブでDJをやらせてもらったり、トークイベントでご一緒させてもらった。それ以降はダイレクトメールのみでのやりとり。もう何年もお会いしていない。連載を別のところで始めた当初から話を伺いたかったのだが、その頃ぐらいからお身体の調子もあってなかなかお会いする機会が得られなかった、のだが、今回ようやく、、、
静養中でもあるから、無理のない範囲でお話を伺う予定が、2時間近くのロング・インタビューになってしまった。
まず長年の謎だった、ボウイがいたマネジメント・オフィスであるメインマン・プロダクションの日本展開があったとされる話からお聞きした。
「メインマン・プロダクションの件は(スタイリストの)高橋靖子さんに遠回しに話に入ってもらってて、俺はその(所属アーティストの)中の候補のひとりだったんだ。第一候補はジョー山中。けどその時は、ボウイはもうメインマンと喧嘩してたんだよ。あんなキッチュな奴らは嫌だって言って。今野(雄二)さんたちもボウイと付き合ってるつもりだったんだろうけど、日本メインマンってのも怪しい話だったんじゃないかな。ぜんぶ口頭での話だし、契約とかいう話じゃなかった。ロック関係はそこまで成熟していなかったんだよ」
最近ネットで見かけた1973年の『平凡パンチ』の「男の部屋」という連載に、当時、東芝EMIのディレクターであった石坂敬一さんが登場しているものがあった。彼がその頃住んでいたマンションの一室での撮影に、モモヨさんが写っていた。
「原宿の駅から徒歩10分ほどのマンションの一室(中略)この部室には、化粧をほどこし、ロンドン風洋服に身をかためた男たちが夜な夜な現れ、レコードの上に座りこみ、酒を汲みかわし、ロックに酔い、朝をむかえる」
(平凡パンチ 1973年8月20日号より)
「石坂(敬一)さんとは日常的に遊んでた。メンズビギが教会の下にあった頃だね。パーティも2回ぐらい出たよ。最初は紅蜥蜴。73か4だね。ショーケンとかも来てたから『傷だらけの天使』の頃かもしれない。2回目は77年。デストロイヤーって名前で出た。プラスチックスと一緒だった。プラスチックスもキッチュな感じでさ。俺たちは「マシンガン・キッド」とかをパンク風にやったよ」
グラム、パンク、テクノ、ダブ、それぞれの時代のそれぞれの音のエッジで変遷してきた紅蜥蜴についての話は70年代前半にまで遡る。
「最初に幻想鬼ってのがあって、そのあとは通底器。71年とか2年。高一の時、京都にその時つきあってた彼女とかけおちしてさ。祭りってのがあったんだ。京大西部講堂で。そしたら面白くてさ。9月ぐらいまでいた。働かないでも食っていけたから。(裸の)ラリーズとかいたな。灰野に会ったのはその前。70年ぐらいに『日本のロックを考える会』ってのがあって。水上はる子さんの弟子だった人がやったんだよ。喫茶店に30人ぐらい集めて。俺がギターのカッチンと会ったのもそこ。そこに遊びに行ったら、ロックイン、いわゆるセッションもしようってことになるんだけど、楽器できる奴がいなくて、俺がベースでカッチンがギターでセッションやってたらそこに飛び入りで入って来たのが灰野敬二。その頃灰野は高校を辞めて池袋のディスコで(レッド・)ツェッペリンのコピーをやってたらしい」
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