アレがなくなりました
朝、目が覚めると金玉がなくなっていた。まあ、珍しいことではない。カフカの主人公が大きな虫に変身して以来、こういう話は山ほどある。
おれ自身、絹ごし豆腐に変身する話を書いたことがあり、ええと、あれはどんな結末だったか。面白がって追いかけてくる小学生どもと死闘を繰り広げたところまでは覚えているのだが。
おそらく崩れてしまったのだろう。せめて木綿豆腐にしておけばなあ。
もう一度、寝床の中で股間をまさぐってみる。やはり金玉がない。竿の部分はあるのだが、袋はないのだ。おれは、絶望した。なくしてはじめて気づく金玉袋のありがたみである。
こんなときは、どう反応すればいいのか。筒井康隆作品に「ぼ~くのパンツはピ~カピカ」と歌った主人公がいたと思うが、「ぼ~くの金玉はピ~カピカ」は状況に合わない。そもそも金玉がないのだ。ピカピカなのかカピカピなのか正確に記すことはできない。
ならば、碇シンジ君のアドバイスを受け入れて笑えばいいのか。いや、笑ったら最後、それは狂気の笑いとなり永遠に正気には戻れないような気がする。
救急車を呼ぶためにスマホに手を伸ばしたのだが、いやいやいやと思い直した。何と言えばいいのか。「朝起きたら、金玉がなくなってました」と言って、信じてもらえるのか。おそらくいたずら電話だと思われるに違いない。
ふと頭に浮かんだのは、会社の先輩である。頭脳明晰にして容姿端麗。さらには品行方正であり、清廉潔白、すばらしき四文字熟語のオンパレードなのだ。剣道と柔道の有段者でもあり、質実剛健と文武両道も入れておこう。
いつもは二度目の着信音で出るのだが、今日は七回目で出た。あれ、と少し疑問を感じる。
「あ、先輩、おれです」
「やあ、どうしたんだね? 実は、カラダの調子が悪くなってちょっとあわてているんだ」
「へえ、いつもの先輩らしくないですね。先輩があわてるなんて見たことないですよ」
「面目ない」と先輩はしょげた口調で言った。「実は、朝目が覚めると、目玉がなくなっていたんだ。両目ともだ。電話に出るのも一苦労だ」
「えっ」とおれは絶句した。「目玉がなくなったって、それは大変じゃないですか。ちょっとあわてるどころの話じゃないですよ。ものすごくあわてるべきです」
「確かに。でも、あわてて両目が戻るわけじゃないからな。そもそも君は、起きたばかりでテレビも見ていないんだろう。まあ、独身だから仕方がないな。現状を把握していないようだから教えてあげるが、全世界的にこの異変は起こっているらしいよ。もちろん原因は不明だ」
おれは再び絶句した。全世界的な異変? 自分の金玉がなくなっていたことにあわててしまい、回りのことにはまったく意識が向いていなかった。
「全世界的って」とおれはつぶやいた。
「カラダのどこかの部位がなくなったんだ。どうやらすべての人間に起こったらしい。対になった部位なら両方。一つなら一つがなくなる」と先輩が相変わらず落ち着いた声で説明する。
「両耳がなくなって耳なし芳一になった人や両腕や両足がなくなった人もいる。実は、私の妻は鼻がなくなった」
おれは驚いた。何度か会ったことのある奥さんの顔を思い浮かべる。先輩が「クレオパトラ似の妻だ」と紹介したとおり、鼻筋の通った絶世の美女だった。
「妻の悲鳴で目が覚めたんだ。まあ、私は目がなくなっていたから、妻のそんな顔を見ずにすんだ。まるで河野多恵子の『後日の話』だが、まあ、目が見えないことは幸いと言うべきだろうな。で、君はどの部位がなくなったんだ?」
「あ、おれは金玉が」
「それは運がいい。金玉ならとりあえず不便はない。運の悪い人は、肺が二つともなくなって窒息死。心臓がなくなった人も多いらしい。もちろん即死だ」
運がいいのか、とおれは先輩の言葉を頭の中で繰り返した。いや、運がいいとはとても思えないのだが、確かには先輩や奥さんと比べればマシと言えるかも知れない。
「ああ、すまん」と先輩が言った。「妻が呼んでいるので、これで失礼するよ。どうやら朝食ができたらしい。ちなみに、会社に出る必要はないぞ。当分、世界はひっくり返ったままだ」
電話の向こうで、「パンが焼けたわ」とケタケタ笑いながら叫ぶ女性の声が聞こえた。
電話を切ってから、とりあえずテレビを付けてみると、どの局も混乱していた。サングラスをかけた女性アナウンサーが「落ち着いてください」と繰り返し言っている。先輩と同様両目がなくなったのだろう。
混乱したのか頭を抱えた拍子にサングラスが落ちた。おれは、心臓が止まりそうになった。目の部分がのっぺりしたマネキンのようだったのだ。単に目玉がなくなって暗い穴が空いているのだと想像していた。
そう言えば、おれの金玉の跡もまるで最初からなかったかのようにスベスベだった。おそらく鼻も同様だろう。骸骨のように縦に長い鼻孔があるのではなく、鼻がないだけのスベスベの皮膚があるのだろう。
チャイムの音がした。
扉を開けてみると、隣の女子大生だ。引っ越してきたときから、彼女のことは意識していた。容姿端麗、品行方正、頭脳明晰。まるで先輩の女性版である。だが、今は、随分と顔色が悪い。まるで死人の顔である。
「どうしました?」
「なんか、朝起きたら調子が悪くって」とかすれた声で言う。「119に電話したら、どうしてもつながらなくって」
どうやら彼女も起きたばかりで何が起こったのか知らないらしい。おれは、状況を説明した。彼女は、途中から首をブンブンとふりだした。
「そんな馬鹿なことがあるわけないです」と声を振り絞る。「あなただって、どこもなくなってないじゃないですか」
「いや、見えない部分がなくなっているんだ」とおれは言う。女性に向かって「金玉がありません」とは言いづらい。おれは、自分の股間を指さした。死人の顔色をした彼女の頬が、かすかに赤らんだ。
自室にテレビがないというので、おれの部屋に上げてテレビを見せることにする。ある局では、現状をはっきりと映し出すことにしたらしい。目のないアナウンサーや口がないスタッフ、両腕がないアシスタントが画面に現れる。海外の放送局からの映像も映し出された。日本と同じ状況である。
「じゃあ、私は」と彼女が言う。
「その顔色の悪さだと、内臓、もしかすると腎臓ながなくなったのかも知れない」
「オシッコ、出なかった」と彼女が力なく言う。
「とりあえず病院に行こう」とおれは彼女の肩に手を置いた。「おそらく病院はごった返しているだろうが、今は行くしかない。それに腎臓は、おれは二つ持ってる。君に一つ譲るよ」
それを聞いて彼女は少し笑った。それは、魅力的な笑顔だった。こんな状況にも関わらず、おれの胸は高鳴った。
だが、とおれは思う。金玉がなくなれば、テストステロンという男性ホルモンが低下する。いずれおれは、心身ともに女性化していくのだろう。そうなれば、彼女に対する意識も変わっていくに違いない。
それは、少し寂しいな。おれはそんな気持ちを抱えたまま、ふらつく彼女に肩を貸し、混乱する街の中を病院に向かって歩いて行った。
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