適切なタイトルが思い付かないけど、あえて言えば「愚痴」ですかね? いや、明らかに愚痴ですね
この前、「noteやめようか悩んだ事件」について述べる。
愚痴と捉えていただいても構わないし、陰でコソコソ悪口を言うのは人としてどうかと思うよ、という批判もあるかと思うが、それは承知の上で書く。このもやもやとした気持ちを吐き出さないと、次に進めない気がする。
以下の内容はあくまでも僕の視点から書かれたものであり、客観性は担保されないことを申し添えておく。
その当時相互フォローしていた人が、愛情だか幸福だかを得るには鈍感さが必要だ、という記事を書いていた。嫌なところ、見たく無いものには目を遣らない、のが肝要である、といった趣旨だったと思う。それにはどうも違和感があったので、「それは出来る人もいれば、出来ない人もいるのでは?」を相当やんわりした(曖昧とも言う)表現に変換した形でコメントを書いた。当のご本人は自分に否定的なコメントが来るとは思っていなかったのか、全く噛み合わない返信が返ってきた。ここで「はい、仰る通りで」と諦めておけば良かったのかも知れないのだが、ついつい、そういう意味ではありません、と今度は明確な表現に書き直してしまった。
再度のコメントへの返信には、出来ない人(鈍感になれない人)は、それはそれでまた別の幸福を得るでしょう、との旨が記されていた。最初、「神託ですか?」と思った。確かにその通りである。と言うか、そりゃあ、そうだよ。「東大話法」的でもある。しかし、救いも無ければ、本文との整合性も無い。そして何よりも、そのコメントはこう締めくられていた。
「もうやめませんか?」
たかだか2回のコメントの行き来であり、しかも1回は誤りを訂正しただけ。まるで日常的に付き纏い行為をしているかのように書かれて、さすがに不愉快な気持ちになった。しばらく悩んだが、フォローしている限りその人の記事が流れてくるので、已む無くフォローを解除し、ブロックした。ダッシュボードで確認すると、その週だけ全体ビューの値が異常なまでに跳ね上がっているので、相手の多数のフォロワー(僕より二桁も多い)が、このカサンドラとやらはどんな奴だろう? と見に来たのが窺い知れる。noteの方々は御行儀が良いので、それ以上の騒ぎにはならなかったのが幸いである。
いま思い返すと何故そんなに人気があり、そしてポジティブ一辺倒の人と相互フォローしていたのだろう?。崩れかけた地下牢の天井を見上げた時、わずかに開いた穴から差し込む一条の光に目が眩んだのかも知れない。
数日前に現在も相互フォローさせていただいている方が書かれた記事を読んで(勝手に)勇気づけられ、この記事を書いている。無断で引き合いに出して、すみません。ご迷惑でしたら終わりの方は消しますので、遠慮なくご連絡ください。
やっぱり気付かない振りをするのではなく、「丁寧に内側を覗き込む」のは大事だよね。そう思います。
しかし、自分は幾つになってもメンタル弱いなぁ、と思います。衝撃を受けると固まってしまうので、周りの人たちは誰も気付かないのですが、それは良いような、悪いような。