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#89 映画感想『大いなる不在』 - 毎日投稿49日目

この映画を見たのは8月頃でした。
どう感想を書けば良いかわからず、スマホのメモ帳に何度も書いては消してを繰り返していましたが、ようやくまとまったので投稿します。
拙文ですが、最後までお付き合いいただけると幸いです。

長編デビュー作「コンプリシティ 優しい共犯」がトロント、ベルリン、釜山などの国際映画祭に招待され高い評価を得た近浦啓監督の第2作。森山未來が主演を務め、藤竜也と親子役で初共演を果たしたヒューマンサスペンス。

幼い頃に自分と母を捨てた父が事件を起こして警察に捕まった。知らせを受けて久しぶりに父である陽二のもとを訪ねることになった卓(たかし)は、認知症で別人のように変わり果てた父と再会する。さらに、卓にとっては義母になる、父の再婚相手である直美が行方をくらましていた。一体、彼らに何があったのか。卓は、父と義母の生活を調べ始める。父の家に残されていた大量の手紙やメモ、そして父を知る人たちから聞く話を通して、卓は次第に父の人生をたどっていくことになるが……。

映画.com より引用

まずこの作品は「認知症の父と息子のやりとりで過去の蟠りが解け分かりあうヒューマンドラマ」ではありません。どう贔屓目に解釈してもそういう作品ではないです。あらすじにもヒューマンサスペンスとありますしね。
個人的には「人を人たらしめるものは何か?」を問いかける作品だったと感じました。

過去の実績、残っている記憶、人との関わり、現在の環境。何を持ってその人はその人でいられたのか、様々その存在が欠けたその人は同一人物と言えるのか?


不在の妻(卓にとっての義母)の直美(原日出子)の行方を探るなかで明らかになる陽二の過去と人間性、そして徐々に壊れて行く陽二の姿に認知症の恐ろしさを感じさせます。

藤竜也演じる父陽二は、卓に父親らしい態度は見せるものの、どれも断片的に切り取られたような「父親らしさ」。
この父性の欠如は、卓と過ごした時間の短さだけでなく、妻と息子を捨て初恋の人を選ぶ人間的な未熟さからも見られます。
他人に自分と同程度の知性を求め、それに足らない人間は見下し容赦なく侮蔑的な言葉を浴びせるというディスコミュニケーションを絵に描いたような人物像で、誰より知性を求めながら、その実誰よりも感情的である意味人間臭い。その姿は卓と対照的にも映ります。
また、知性により保っていた社会性は認知症によって剥がれ落ちるが、認知症によって現れた本質も上述の通り排他的。認知症を患う前後でも結果としてディスコミュニケーションの状況が変わっていないのが本当に皮肉です。

森山未來演じる卓の人間味の薄さが不気味で、あらゆる感情が発露せず、特に「そこはもっと怒るだろ」と思われるシーンが頻発するにも関わらず、怒りの感情が出ない。
社会的に成熟しているといえばそうかもしれませんが、幼い頃に父と離れてしまった事に起因する父性の希薄さ、あるいは諦めに近い感情が卓のベースにあるように感じました。妻に対してさえ本心で接していないような描写が、その考えを後押ししています。

卓、陽二は共に過ごした時間、記憶は圧倒的に不足し、家族としての絆の欠落が人間みの薄さや孤独を招いているようにも見え、認知症という問題の枠を超えた家族、人との関わり方を問かけてくるようです。
「大いなる不在」というタイトルが指し示す意味が、見る人によって大きく変わる作品だと思いました。


タイトルの意味もそうですし、卓のキャラクターについても見る人によってかなり意見が分かれると思いました。
個人的には卓の演劇シーン。あれは父を裸の王様に見立て、父の有り様を自身の演劇にフィードバックさせているようにも映りました。物語後半で病院から離れたのも、真相が明らかになり、認知症の父を十分に観察できてもう得るものがなくなったからでは?と冷徹な思想が見え隠れします。
(あくまで個人的な解釈です)
この解釈だと卓はかなりサイコパスな性格になりますが、劇中の描かれ方と森山未來さんの快演もあって、そう捉えられなくも無い、くらいの説得力はあったかと思います。


冒頭の通り、この映画を見たのは8月頃で、まだBlu-rayにもなっていないので過去のメモを元に記憶を探りながら書きました。ただそれでも一つ一つのシーンが鮮烈に残っていたので、自分の中でもかなり印象深い映画だったとあらためて感じます。
地方の一部映画館では上映されているところもあるようなので、気になる方はご覧になってみてください。

本日も最後までお読みくださりありがとうございます。

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