汽車は闇を抜けて光りの海へ…。The train goes through the darkness to the sea of light….
私を構成する5つのマンガは『銀河鉄道999』『あしたのジョー』『妖怪人間ベム』『童夢』『ストップ!!ひばりくん!』です。順番には特に意味はありません。念のため。
もちろん思いつくままに並べてみれば、ルパン三世、タイガーマスク、サスケ、AKIRA、ベルサイユのばら、天空の城ラピュタ、ブラックジャック、ゴルゴ13、リボンの騎士、火垂るの墓、オバQ、ドラえもん、アンパンマン、ゲゲゲ(墓場)の鬼太郎、気分はもう戦争、科学忍者隊ガッチャマン、東京のカサノバ、ポーの一族、ハートカクテル、カムイ伝(外伝)、うしろの百太郎、まことちゃん、タンタン、カリメロ、ピーナッツ(スヌーピー)、人造人間キャシャーン、サイボーグ009、きょうの猫村さん、マカロニほうれん荘、うる星やつら、サザエさん、キャンディ・キャンディ、同棲時代、750ライダー、巨人の星、気分はグルービー、などなども、きっと私を構成していると思います。だから正直なところ5つに絞るのは難しかったです。
ということで、『銀河鉄道999』から。
『銀河鉄道999』は私に「命のあり方」を教えてくれたマンガです。
今回、本棚のコミックを読み返して気づきました。最初の巻ではメーテルの顔が、ずいぶん子供だということに。星野鉄郎よりはお姉さんのようですが、やはり大人の女性ではありません。このマンガは、読者も銀河鉄道999号に乗車して、鉄郎の成長を疑似体験(追体験)するような話ですが、同時にメーテルの成長物語でもあります。どうしても読者は鉄郎の視点になりがちですが、メーテルの視点(過去現在未来、使命感、秘匿に伴う苦悩など)で読み直すと、より奥行きが増してきます。また、命のあり方、永遠性、寿命といったテーマも、AI時代、人生100年時代の今だからこそ響くものがありそうです。ちなみに私の愛猫の名前は「メーテル」です。
次からは手元にマンガがないので、記憶に基づいて語ります。間違っていたらごめんなさい。
『あしたのジョー』は私に「燃え尽きる意義」を教えてくれたマンガです。
このマンガがスポ根マンガの域を超えていることは、当時のハイジャック犯が声明文に、その名を記していることからも、うかがえます。私は矢吹丈の得体の知れなさに惹かれました。丈は、どこからきて、どこにいくのか。ライバルの力石徹の存在感は、主人公の丈を超えるものがあり、その死に際しては現実に葬儀が行われたほどです。最も印象的な対戦相手を1人選ぶなら(力石以外なら)金竜飛です。金との対戦では、飢餓や減量といった身体性の先にある「ハングリーとは何か」が問題提起されています。丈の成長には欠かせない相手です。ここでもまた力石の存在が光ります。友達以上恋人未満の紀ちゃんとの会話で、丈は燃え尽きる「充実感」を語りますが、結局、丈自身の「孤独感」を強めることになります。今あらためて丈を思うとき「お前は、今、くすぶっていないか?」という声が聞こえてきそうです。
『妖怪人間ベム』は私に「人間とは何か」を教えてくれたマンガです。
マンガよりもアニメの印象が強いので、記憶はほぼアニメです。無国籍的な雰囲気と不思議なBGM、戦う敵が悪魔や悪霊など異形の姿をしているところが、子供には普遍的で怖かったです。それはホラーというよりも、「自己の存在」と「現実の世界」の危うさを知らされる、そういう恐れに近いものでした。毎回、利己的な人間たちが(悪魔などに付け込まれ)事件を起こし、人間になるための旅(積善の放浪)を続ける妖怪3人(3匹?)に救済されます。それなのに3人は差別されて、ずっと救済されません(人間になれません)。子供心に悔しくて、妖怪ではないただの人間として、情けない気持ちになりました。妖怪人間は「人間になる」という利己的な目的の実現のために(何人助ければ人間になれるという確約もありませんが)人間を助けます。その目的は利己的でも、その行為は限りなく自己犠牲的であり利他的です。妖怪人間の「早く人間になりたい!」という叫びは、すでに人間として無条件に存在する私たちに「人間とは何か」という根源的な問いを突き付けます。私たちは、その問いの答えを、真摯に考える必要があります。格差や分断が広がる今こそ、利他的な3人を思い出すべき時かもしれません。
『童夢』は私に「高齢化の問題」を教えてくれたマンガです。
確か日本SF大賞を受賞した作品だと記憶しています。なぜSFなのか? それは登場人物の中に「超能力者」がいるからです。ある老人(長さん)がマンモス団地に1人で住んでいます。そこに、とある家族(両親と少女(悦ちゃん))が引っ越してきます。実は、老人と少女が超能力者です。そのころ団地では凄惨な事件が多発します。犯人は老人ですが警察にはわかりません。老人の仕業だと気づいた少女は、自分が老人と同じ超能力者であることをテレパシー(?)で知らせて、自分の超能力を駆使して、老人の暴走を阻止しようとします。もちろん老人が止まるわけもなく、最終的には老人と少女との全面対決になります。ハリウッド映画を超えるような、これがマンガなのかと思うほどの、すさまじい画力が感じられるシーンでした。団地という当たり前の日常の中で、超能力者同士が対決するだけでもワクワクしますが、推理小説的な要素(警察の捜査や他の住民たちとの関係性など)もあって、かなり楽しめます。後日談として、老人の死が描かれています。少女の関与が仄めかされていますが、さてどうでしょうか。
『童夢』には、さらに、ひとひねりがあります。
実は老人は「認知症」なのです(当時は「認知症」という言葉ではなかったと思いますが…)。精神的には少女と同じ「子供」なのです(だからこそ、少女も何とか老人と「対等」に対戦できたともいえます)。そういう意味で『童夢』というタイトルは象徴的です。老人は自分の殺戮行為を、犯罪ではなく「遊び」や「悪戯」のように認知しています。だから少女に邪魔されたと思って怒り、暴走するのです。なるほど超能力者も年を取るだろうし、年を取れば、普通能力の老人と同じように、認知症になる可能性もあるのです。認知症の超能力者は、自分の超能力をコントロールできるのかどうか。面白い。実に興味深い。作者の意図がどうであれ、私は当時(二十歳そこそこでしたが)「高齢化の問題」を教えられました。ポイントは「誰でも認知症になる可能性がある」ということです。そのとき、自分だったら、家族だったら、どうするのか。私は今はもうアラカンですから、当事者意識が、あの頃よりも否が応でも高まります。もしも、あなたが超能力者だとしても、他人事ではありません。これは蛇足ですが、少女が老婆になって認知症になったら『童夢2』になるのでしょうか。それはそれで怖いような…。
『ストップ!!ひばりくん!』は私に「多様性」を教えてくれたマンガです。
主人公のひばりは、ものすごく可愛くておしゃれな「少年」です。だから、ひばり「くん」なのです。最初は、単純に作者のマンガとギャグセンスが好きなので読み始めたのですが、それでも、いろいろと考えさせられました。ひばりの家族は、ひばりを「少女的少年」として、ドタバタはあるにせよ、ひばりのままに受け入れます。それがギャグマンガになっています。つまりそれは、ひばりの存在が、非現実的だから(当時なら?)ギャグになり得たともいえます。ひばりの性別を暴こうとするクラスメートに対して、ひばりの姉は、身体検査の当日、替え玉になってくれます。今はどうなのでしょうか。2020年を生きるリアルな少女的少年や少年的少女なら、どのように対応するのでしょう。そのとき学校やクラスメートは味方なのでしょうか。当時のひばりにとって、味方は身内だけでした。他にも、見どころはたくさんあります。ひばりの家に下宿している少年との、微妙な関係も大いに気になるところです。恋愛に発展するのでしょうか。当時はギャグマンガでも今ならシリアスなドラマになるでしょう。梶先輩のストーカー的な暑苦しさも忘れられません(あのポーズとともに)。ひばりにとって2020年の日本は、暮らしやすい国になっていますか。実は私は、完全版を読めていません。機会があったら、ぜひ読みたいと思います。