差別を少しでも減らせないか考えてみるnote
差別について考えさせられる日々です。少しでも考えを深められないかなと思い、最近読んだ差別についての本から、「これは差別そのものについて考えてみる上で大切だ」というポイントをnoteにまとめてみました。
問題自体がシンプルではありません。観点を絞りましたが引用入れて8,000字あります。かといって詳しい方には物足りないかもしれません。「差別についてまだよく分かってないけど、じっくり考えてみたい」という方向けに書きました。(いや時間ねぇよって方は、少しでも考えるために「さいごに」だけ読んで頂いても良いかもしれません)
下記が参考にした本です。これからも良い情報が入ったら編集・取捨選択していこうと思います。(Kindleで読んでいるので、気になった方は参照できるよう、引用部分には各本のKindleの位置No.も記してあります)どちらの本も質が高く、引用外でも大切な箇所はいくつもあります。興味を持たれた方はぜひ購入して、全文目を通してみてください。
「差別感情の哲学」 (講談社学術文庫) / 中島義道:哲学の目線から差別の実像、その背景にある感情について迫っています。
「偏見や差別はなぜ起こる?: 心理メカニズムの解明と現象の分析 **」(ちとせプレス) / 北村英哉・唐沢穣 **:社会心理学の観点から偏見・差別のメカニズムを解き明かそうと試みています。
本noteの流れは以下の感じです。
●差別を考える上で大切なこと
●差別とは?
●差別の根っこにあるもの
●では、差別を減らすためにどうするか?
元々正解がある話ではありません。「この考え方は間違っている」と否定し合うのは意味がないと思っています。複雑で簡単ではない問いだからこそ、質の高い素材を元に、みなさんと一緒に考えを深めていけたら嬉しいです。
そして文字ばっかりだとつかれてしまう&伝えたいことがイメージでも伝わると考え、漫画の名作からハッとする言葉も引用にて織り交ぜてみました! では行きましょう。
●差別を考える上で大切なこと
■じっくり根っこから考える
差別に対する上で最大の敵は「考えない」ことです。もちろんシンプルで簡単な問題ではありません。だからこそ、その根本は何なのか? 問題の根っこへできる限り、深く深く考えようとする姿勢が求められます。考え切れるかより、まず考えてみようとすることが大切ではないでしょうか。問題は見えないから存在しない訳ではありません。
あらゆる差別はよく考えないこと、すなわち思考の怠惰から発生する。よく考えると、すさまじく複雑に入り組んでいる問題が鮮明に見えてくるのに、よく考えない者にはそれが見えてこない。見えてこないから、そこに問題はないと思い込むのだ。 (中島義道, 2015, 差別感情の哲学 講談社学術文庫, 位置: 152)
■自分に対して批判的に考える
厄介なのは、「差別はいけない!」と積極的に活動していることと、その人が本当に「差別をしていない」かどうかは別の話であるということです。残念ながら「口だけでは何とでも言える」ということですね……。
「自分は正しい、差別していない」と思い込むことが差別を考える上では危険だと言えます。そして「差別はいけない、絶対に間違っている」と結論づけて終えてしまうのではなく、まず「誰もが差別感情を持っていて、それは自分も例外ではない。それはどういうことか」と批判的に考えることが差別について考えを深めるための第一歩になる……ということでしょうか。
差別をしている者は、自分が差別しているという自覚をもたず、自分のことを平等主義的だと信じ込む傾向があり、彼らはさらに、差別される側に同情的であり、少数派集団の人たちに対しての好意や同情を積極的に示そうとすることもある。(北村英哉・唐沢穣, 2018, 偏見や差別はなぜ起こる? ちとせプレス, 位置: 204)
差別感情を扱うさいに最も大切な要件は「自己批判精神」であるように思う。いかなる優れた理論も実践も、もしそれが自己批判精神の欠如したものであれば、無条件に自分を正しいとするものであれば、さしあたり顔を背けていいであろう。** **(中島, 2015, 位置: 219)
■「正義」を過信しない
「悪」を覆そうとするがあまり、「善」を推し進めようとすることが、気づくと「行き過ぎた正義」になってしまう場合があります。そして人は何度も「行き過ぎた正義」によって大きな過ちを犯してきました。差別という一見「してはいけない」ことが当たり前の正義ように思えることだからこそ、よく考えずにその正義に乗っかって叩き潰そうとすることが更に多くの犠牲を生むかもしれないのです。いや、ムズいですね……。
常軌を逸した集団的他人攻撃が放出されるのは、「悪」を覆そうとの企図のもとでの「正しい者」の復讐である。西洋史に限っても、魔女裁判しかり、フランス革命直後の恐怖政治しかり、共産主義政権(とくにその成立時) しかり、そして、ヒトラーのナチズムしかりである。ヒトラーはドイツ人はユダヤ人による「被害者」であると一貫して 喧伝 した。あのユダヤ人大量殺戮はナチスにとっては「ユダヤ人の企みからの中央ヨーロッパの解放戦争」なのである。 (中島, 2015, 位置: 879)
自分の信ずるもの、頼るものの一つが権威や現状の社会のあり方そのもの(現状肯定) であった場合には、これを批判する者が敵に見えてしまう。(中略) 現状を肯定するあまり、そうした「改善」についてもみずからの存立基盤を脅かす批判をなすものとして、過剰に警戒し、敵意を抱くといった反応が呼び覚まされることがある (北村・唐沢, 位置: 1,095)
●差別とは?
■差別(偏見)とは?
ひとくちに「差別」「偏見」と言っても、様々な捉え方があります。自分の考えを深める上で、そもそも心理学や哲学では差別をどう捉えているか? 知ることは有効だと思います。
社会心理学が考察の対象とする「偏見」や「差別」とは、典型的には、何らかの社会集団や、社会的カテゴリー(性別、人種、年齢層、居住地域といった多種多様な「分類」) に対するものである。たとえば「これはXさんがつくった料理だから、おいしい(または、おいしくない) に違いない」というのも、日常用語では「偏見」の一種と呼ばれるかもしれない。ところが、社会心理学が扱う偏見とは、こうした一個人に対する先入観ではなく、「この料理をつくったXさんは、Yという集団(またはカテゴリー) の一人だから……」という、集団への所属性(「成員性」と呼ぶこともある) がもとになったものを指す。 (北村・唐沢, 位置: 26)
社会心理学では差別や偏見を一個人に対する思い込みではなく、集団へ射程が広がった思い込みであると捉えます。
一方で、差別とは何かを考える上で厄介なのがここにあります。「差別論は個人的な好き嫌いを越えようとする(集団で考えようとする)のに、差別感情はあくまで個人の好き嫌いの延長線上に存在する」ということです。 社会的には「ダメ」と言われているので理性では抑えようとするけれど、実際には一個人の感情として感じてしまうということですね……。
差別論の難しさは、次の(矛盾ではないが) 対立する二命題によって示すことができる。 (1)差別論は個人の快・不快には立ち入らない。 (2)だが、現実には、差別意識は個人の快・不快の延長上に存在する。(中島, 位置: 38)
差別感情の最も基本的な礎石がある。快・不快はわれわれが言語を学ぶと共に身につけてきたものであり、したがって理性的・反省的にそれに抵抗しても「感じ」は変わらないのだ。(中島, 位置: 350)
今日の問題状況は、「差別をしてはならない」という社会的コンセンサスと自分は差別感情を抱いているという内的現実とのズレである。(中島, 位置: 362)
●差別の根っこにあるもの
■「悪」の感情で発達してきた人間
そもそも、差別感情の根っこには何があるのでしょうか? それは「悪」だといいます。
差別感情の根っこには「悪」があるからこそ、人間はより善を求め、伴い豊かな文化が発達してきたという歴史がある。まずその存在と歴史をありのまま認めようとすることが大切になってきそうです。(確かに多くの映画や漫画も、悪役や敵がいるからこそ盛り上がりますね……)
われわれがある人に対して(ゆえなく) 不快を覚え、ある人を(ゆえなく) 嫌悪し、軽蔑し、ある人に(ゆえなく) 恐怖を覚え、自分を誇り、自分の帰属する人間集団を誇り、優越感に浸る……という差別的感情は、──誤解されることを承知で言い切れば──人間存在の豊かさの宝庫なのである。こういう悪がすっかり心のうちから消え去った人間集団を考えてみよう。そこにおいては、哲学も文学も演劇も、すなわちあらゆる「文化」は消滅するであろう。 (中島, 位置: 38)
いかなる敵も存在しないところには、いかなる味方も存在しないのだから、一致団結して敵に立ち向かい味方を守るという勇敢な行為、集団のために自分を犠牲にするという感動的な行為も消え去る。友情も恋愛も家族愛も……それを 妬み破壊しようとする敵がいてこそ大切な 絆 なのである。 (中島, 位置: 73)
■立ちはだかる「善」の壁
そして、「悪」を無くせば差別が無くなるかというと、問題はそう単純ではありません。「悪」と「善」は表裏一体であり、「善」を目指そうとする限り差別はなくならないというのです。
差別問題の難しさは、じつにこの「悪いものがよいものに支えられている」というところにある。(中略) 本書でとくに私の抉り出したいのはここである。差別をなくすには悪をなくせばよい、というわけではない。差別問題は、人間の心のうちに住まう「悪」をよく見据え、それを退治すれば解決できるようなものではないのだ。 われわれ人間が「よいこと」を目指す限り、差別はなくならないであろう。(中島,位置: 1,121)
われわれは断じて他人の(生命を含んだ) 幸福を安直に第一に据えることは慎まなければならない。その場合、他人の幸福を求めるという大義名分のもとに、ありとあらゆる真実はなぎ倒されるであろう。善意の噓がはびこり、誰も自分のうちなる誠実性と真剣に闘うことはなく、何しろ幸福であればいい、何しろ生きていればいい、という(ニーチェの言葉を使うなら)「奴隷道徳」が支配し、真理を愛する営みとしての「愛知=哲学」は死ぬであろう。(中島,位置: 1,121)
では、どうするか?
いや、差別なくすの無理ゲー過ぎでしょ……。差別なくすの、無理だね。で終わってしまっては元も子もありません。無くすのは難しくとも、少しでも差別を減らすために何かできることはないのでしょうか?
社会心理学の視点から差別を減らす方法は、あります。
偏見の解消が簡単には実現しないという前提に立つと、二つの意味での偏見の低減と解消の試みを実践することが重要と考えられる。一つは、個人の認知過程において、偏見やステレオタイプが判断や行動に反映されるのを 抑制する という観点、つまり対人判断や行動に表れる偏見の低減と解消である。もう一つは、長期的かつ段階的に偏見を 是正する という観点、つまり偏見そのものの低減と解消である。 (北村・唐沢, 位置: 1,288)
つまり、
・人間(自分)の思考や行動のクセに気づいて変える
・社会的な方向性として差別、偏見を減らそうと動き続ける
ということです。本記事では特に、個人でも始められる前者にフォーカスして深めてみたいと思います。
●人間(自分)の思考のクセを知ろう
■「現状肯定」ー システム正当化理論
前半でも触れましたが、人間は黙っていると「現状肯定」するクセがあります。日々を生きる上では重要なシステムなのですが、それが問題を引き起こしている場合でも、中々抜けられなくなってしまうといいます。時にはちょっとしんどくても、その状況を客観的に知って、そこから「意識的に」抜けようとすることが、差別を減らすヒントになります。
我々がこのような不公正な現状に折り合いをつけようとするプロセスを、 システム正当化理論(system justification theory) で統合的に説明しようと試みている[ 18]。この理論によると、人には現状の 社会システムを、そこに存在しているという理由のみで正当化しようとする動機( システム正当化動機) がある。なぜなら、人は不確実で無秩序な状態を嫌うがゆえ、たとえ現状のシステムに問題があったとしても、それを織り込んだうえで予測可能な社会の方がはるかに心地よいと考えるからである。(北村・唐沢, 位置: 601)
■「シロクマのことを考えるな」- リバウンド効果
「シロクマのことを考えるな」と言われると逆に考えざるを得なくなってしまう……。聞いたことのある話かもしれませんが、これは差別偏見にも当てはまるそう。シンプルに言うと「偏見を持つな!」と人に言い聞かせるほど、逆に偏見が活性化する可能性があるという研究です。これも厄介な話ですね……。元々差別に対して自己批判的な人だとこの効果は起こりにくいようなのですが、必ずしも全員がそうではないので広く呼びかけるのはかえって危険なのかもしれません。
「特定の思考をしないように」との努力は皮肉にも、抑制したい思考を活性化させ、それが頭に上りやすい状態にしてしまうのである。そして、「考えないように」との思考の監視が緩んだり、思考の制御に必要な認知資源が使い果たされると、抑制していた思考の増加、つまりリバウンド効果が生じてしまう (北村・唐沢, 位置: 1,347)
●失敗から学ぼう
■それでもやっぱり気持ちが大事 - 自己制御モデル
ここまで人の思い込みや思考のクセについて見てきましたが、決して「差別してはいけない」という気持ちそのものが良くない訳ではありません。むしろ大切です。「こうなりたくない」という気持ちがあれば、人は失敗した時に「今度はこうならないようにしよう」と学び、次に生かすことができます。
ステレオタイプ的思考を避けたいという動機をもっている人でさえ、認知資源が十分でなかったり、ステレオタイプの影響に気づけなければ、ステレオタイプに従った判断や行動をしてしまう。デヴァインとマルゴ・モンティースは、こうした失敗を繰り返さない心理的な仕組みがつくられることで、偏見の低減や解消が実現されるとする偏見の自己制御モデルを提起している。
このモデルが強調するのは、偏見の自己制御を働かせる「手がかり」が各自の中につくられることの重要性である。(中略) 罪悪感や良心の呵責が罰として機能し、それを避けるための状況分析と学習が促されるのである。その結果、過去に偏見を示した文脈や対象は、同じ失敗を予期させる「手がかり」として機能するようになり、同様の状況では偏見的反応の意識的抑制が起こるようになるというのがデヴァインらの主張である (北村・唐沢, 位置: 1,387)
●世界を広げよう
■友達を作ろう - 拡張接触仮説
拡張接触仮説をシンプルに言うと、例えば「黒人の友達が多い」人ほど黒人に対する差別を持ちづらいということです! たしかに、周りでも実際に今差別で苦しんでいる黒人の友達が多い人の方が、より共感的に行動を起こしている感覚があります。
近年の研究では、内集団成員に外集団に所属する友人がいると「知ること」や内集団と外集団の人々が友好的に接触する様子を「見聞きすること」でも、集団間の態度が改善されるという「 拡張接触仮説」(extended contact hypothesis) に注目が集まっている。 (北村・唐沢, 位置: 1,553)
■想像しよう - 仮想接触仮説
「黒人の友達なんて周りにいないし、中々作れないし……」という人にも朗報です。なんと、直接の友達がいなくても、仲の良い交流をイメージするだけで偏見が減るという仮説が出ています。想像力ってスゴい……!
何もないところからイメージするのは難しいと思いますので、本を読んだり、映画やドラマを観たりするのも良い方法だといえるでしょう。これも仮説ですが、かなり希望の持てる研究です……! とても有用性のある話なので、少し長いですが説明を引用します。
直接的接触に頼らない偏見の低減方略として、自分自身が外集団成員と友好的な接触をしていると「想像」することで偏見が低減されるとする「 仮想接触仮説」(imagined contact hypothesis) も提唱されている。たとえば、初対面の高齢者と出会ったという状況を想定させ、相手の容貌や、どのような会話をし、何を学び、たんなる高齢者ではなく、どんな人だととらえることができたかを具体的に想像するよう求めると、こうした想像を一切しなかった場合や高齢者について考えるようにとだけ促した場合と比較して、高齢者への態度が好転することが明らかになっている。(中略)外集団成員と友好的に交流している状況を想像した場合にもこうした反応が生じることで、偏見の低減、接触への不安の軽減、外集団成員とうまく交流できるという自己効力感の上昇といった肯定的な効果が発生すると考えられる (北村・唐沢, 位置: 1,578)
さいごに
最後まで読んでくださってありがとうございます。改めて超重要なメッセージを2つにぎゅーーっとまとめてみました。
・差別心は誰にでも、自分にもあると考えよう。人間の思考のクセを知ろう
・それでも「差別はいけない」と気持ちを持とう。失敗しても良い。世界で友達作って、想像して、自分の世界を広げよう!
こんな感じでしょうか。まとめるとシンプルですが、研究に裏打ちされた話だと思うと重みがあり、勇気が出ますね。
でも、現実は厳しいです。下の動画を見たことはあるでしょうか。
「このままじゃ何も解決しない。でもどうしたら良いか分からねぇ。頼む。何か良い方法を編み出してくれ」ー悲痛な叫びが聞こえます。綺麗事ではなく、差別を巡り切羽詰まった命のやり取りが、今も、この世界で現実に行われています。しかも紛争地域の話ではありません。これは、私達のように普通の市民が暮らす地域社会で起こっています。
世界は、人は繋がっています。僕は差別というテーマに対して専門家でも何でもありません。ですが、門外漢でもないと思っています。これは「どこかの知らない誰かの問題」ではなく、「なんか騒がれてるから知っとかないといけない問題」でもなく、「自分自身の問題」です。
一人ひとりの意識、行動の積み重ねによって大きな問題が起こってしまっているのであれば、一人ひとりが意識を変え、行動を積み重ねてその現実を変えていくしかないのかもしれません。
この記事が少しでも今を一緒に生きているあなたと、今起きている問題について一緒に考える時間になったのであれば嬉しいです。ありがとうございました。これからもできることをやっていきましょう。
おおたき
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参考文献:
「偏見や差別はなぜ起こる?: 心理メカニズムの解明と現象の分析 」(ちとせプレス) / 北村英哉・唐沢穣