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#弓道

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弓道のこと全般、学んだこと、感じたこと、共感したいこと、共有したいこと
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弓の魅力

常々思っていたことだが、弓の持つ文化的、芸術的、精神的な魅了を大衆に伝えるメディアが少な過ぎると思う。奥ゆかしさゆえに、無粋なことをしないのだろうか。 弓および弓道の魅力の多くは「道」の魅力に通ずるところが大きい。すなわち、武道、武士道、禅である。きわめて原始的な道具を使って、静止した的に向かって矢を射る。その一連の動きを通して自分自身と対話をする。敵のいない武術。立禅。茶道の精神性にも通ずるが、そこにはもてなす相手はいない。 時代劇に登場する武士は、日本刀で戦闘するシー

続・大日本弓道會とセバスチャンさん

以下の記事の続きです。狭い界隈とはいえ、ホットな話題であったためか、思いの外アクセスが沢山ありましたのでその続きを書きました。 前回の記事では、簡単なネット検索により得られた情報により、バーチャルオフィスで登記された団体である事や、大日本弓道會を名乗りながらも「よそく流」という不思議な流派の組織であることの滑稽さを紹介しました。 それらの限られた情報から、私は「『弓と禅』から弓道に興味を持った英語圏の方々に、日本の由緒正しき伝統的かつ国際的な弓道団体であることを装って、有

大日本弓道會と「よそく流」の謎

戦前に実在した、大日本弓道会と同じ名前を名乗る不思議な団体の存在について、全弓連が注意喚起をしているので調べてみた。 まず、実在した本物の大日本弓道会については、以下の論文に詳しくまとめられている。現代弓道の歴史を知る上でも、とても興味深い内容です。 一方で、話題になっている不思議な大日本弓道會とは以下のWebサイトの組織である。 Dai Nippon Kyudo Kai 大日本弓道會 組織の代表者はアメリカ人のようだが、国税局の法人番号公表サイトによると、2024/2

#弓道018 弓の巨人が生きた時代

弓道教本に写真が掲載されている弓道家たちと、彼らが生きた激動の時代の主な出来事を年表として並べてみた。 千葉 胤次 、宇野 要三郎、浦上 栄、神永 政吉、高木 棐 坂本 茂、鱸重 康、本多 利実、阿波 研造 最後まで読んでくれてありがとうございます。 今後も弓道に関することを記事にしていきたいと思います。 リアクションしていただけると嬉しいです。

#弓道017 阿波 研造

「弓道教本」第二巻の巻頭には、敬愛の念を込め、本文では言及されていない、四名の弓人が写真と供に紹介がされている。 阿波 研造(あわ けんぞう) 1880年-1939年 故本多利実翁門下の逸材。宮城県出身。見鳳と号す。昭和二年武徳会弓道範士。明治末期より仙台の二高・東北帝大等の弓道師範として重んぜられ、大射道教と称し、一家の見証をもつて東北の重鎮として多くの門人を育成さ れた。昭和十四年後。享年六十。 スティーブ・ジョブズの生涯の愛読書ともいわれているオイゲン・ヘルゲルが

#弓道016 本多 利実

「弓道教本」第二巻の巻頭には、敬愛の念を込め、本文では言及されていない、四名の弓人が写真と供に紹介がされている。 本多 利実(ほんだ としざね) 1836年-1917年 明治・大正期の弓界の先覚者。東京出身。生弓斎と号す。 幼少より父本多利重(旗本の士)に尾州竹林派の弓術を学び、後年竹林派の斜面打起しを改めて正面打起しとし新機軸を出され、明治二五年以後 一高・東大を始め、幾多の学校の弓術師範として名声を謳われた。大正・昭和に活躍した大家の多くは翁の門に学び、門人、翁の射風

#弓道015 鱸 重康

「弓道教本」第二巻の巻頭には、敬愛の念を込め、本文では言及されていない、四名の弓人が写真と供に紹介がされている。 鱸 重康(すずき しげやす) 1866年-1955年 小笠原流弓道最高の一張弓免許。昭和二年大日本武徳会弓道範士。 青年の頃日置流弓道を学び、明治二十四年小笠原流宗家小笠清務の門に入る。東京大学法科卒業後司法官として終始し、昭和四年大審院検事を最後に停年退官後、特に弓界の発展に尽力され、清寧館弓道名誉師範・日本弓道連盟顧問であった。範士・十段。 昭和三十年歿,

#弓道014 坂本 茂

「弓道教本」第二巻の巻頭には、敬愛の念を込め、本文では言及されていない、四名の弓人が写真と供に紹介がされている。 坂本 茂(さかもと しげる) 1844年-1936年 熊本における日置流道雪派十四代。大正十三年武德会弓道範士。 肥後藩士坂本廉助の長男。九歳にして同藩弓術師範十代田上武経に入門し、明治二十八年以後生駒師範の代理をつとめ、大正八年宇野茂部師範より印可相伝を受く。同十年宇野師範歿後十四代をつぎ大正・昭和の交熊本弓道界に重きをなし多くの門弟を指導された。昭和十一年

#弓道013 弓道人の日常の心掛け

鴨川乃武幸(範士十段 全日本弓道連盟会長などを歴任)が弓道誌の2000年9・10月号に寄稿した「弓道人の日常の心掛け」。 私も初段審査の前に先輩に印刷したものを頂きました。ただでさえハイコンテクストな弓道界隈においては、常識では割り切れない細かなマナーが沢山あるように思うので、そういったものを野暮と言わずに明文化したのは、とてもありがたいことだと思います。 なお、多数のwebサイトで同様の情報が掲載されているが、いずれも内容が若干異なり、私の手元にあるものも原書の写しではな

#弓道012 高木 棐

「弓道教本」第一巻には、射法選定委員として五先生の顔写真がある。 しかし、流派の個性を一切伏せている第一巻では、それら先生方の弓歴の情報すらないため一人ずつ紹介をする。 高木 棐(たかぎ たすく) 1893年-1964年 明治二十六年生。埼玉県南埼玉郡久喜町出身。洗石と号した。弓道範士・十段、昭和三十九年病歿、享年七十一。 大正元年以後第一高等学校並びに東京帝国大学医学部在学中、故本多利実翁につき尾州竹林派弓道を学び、大正六年翁の歿後嫡孫利時氏が宗家を継いで生弓会を起こす

#弓道011 神永 政吉

「弓道教本」第一巻には、射法選定委員として五先生の顔写真がある。 しかし、流派の個性を一切伏せている第一巻では、それら先生方の弓歴の情報すらないため一人ずつ紹介をする。 神永 政吉(かみなが まさきち) 1885年-1961年 明治十八年生。栃木県足利市出身。的宗と号した。弓道範士・十段、昭和三十六年病歿、享年七十六。明治三十八年頃より約三年間、宇都宮の星野忠徳氏につき日置流雪荷派の弓道を修め、のち本多利実翁に師事、ついで故阿波見鳳範士につき大射道教の修業をされた。 大正

#弓道010 浦上 栄

「弓道教本」第一巻には、射法選定委員として五先生の顔写真がある。 しかし、流派の個性を一切伏せている第一巻では、それら先生方の弓歴の情報すらないため一人ずつ紹介をする。 浦上 栄(うらがみ さかえ) 1882年-1971年 明治十五年生。兵庫県出身。採山と号す。昭和四十六年八月歿、享年九十。 十歳のとき先考直置氏に日置当流の指導を受け、明治四十五年師家たる岡山の故徳山勝弥太範士の免許を得、以来日置流弓道をもって一家をなし、大正元年には武徳会より精錬証を、同七年に弓道教士、

#弓道009 宇野 要三郎

「弓道教本」第一巻には、射法選定委員として五先生の顔写真がある。 しかし、流派の個性を一切伏せている第一巻では、それら先生方の弓歴の情報すらないため一人ずつ紹介をする。 宇野 要三郎(うの ようざぶろう) 1878年-1969年 明治十一年生、青森県南津軽郡六郷村出身。竹隠と号す。昭和四十四年三月歿、享年九十二。 京都帝国大学在学中はテニス・ボート・馬術等のスポーツマンとして活躍されたが、明治三十八年より大正三年まで判事として神戸裁判所に奉職中弓道に志し、紀州竹林派の岡内

#弓道008 千葉 胤次

「弓道教本」第一巻には、射法選定委員として五先生の顔写真がある。 しかし、流派の個性を一切伏せている第一巻では、それら先生方の弓歴の情報すらないため一人ずつ紹介をする。 千葉 胤次(ちば たねつぐ) 1894年-1959年 明治二十七年生、宮城県栗原郡高清水町出身、宏斎と号した。 弓道範士・十段、昭和三十四年病歿、享年六十五。 六才より柳生心眼流柔術を学び、十三才講道館に入門し、錦城中学・早稲田大学に在学中は柔道の逸材として聞え、講道館より六段を授与された。 弓道は九才に