【政治哲学で今後の生き方を学ぶ】プラグマティズム
現代最強の国家・アメリカ。
その背骨となる思想のひとつがプラグマティズムである。
まずやってみる。
やってみてだめなら別の方法を考える。
この明快な論理は、実用主義や道具主義などと呼ばれ、アメリカの哲学という通称から、何かと誤解されてきたプラグマティズムではあるが、
「今日より明日は少しはマシになる」
と信じる希望の思想でもあった。
だが、南北戦争後、産業が急成長した19世紀後半から20世紀初頭の米国に登場した米国固有の思想形態を、ジェイムズの「プラグマティズム」とデューイの「哲学の改造」を主な題材にして、受講者が理解しやすいように丁寧に読み解いた講義録である「プラグマティズム入門講義」の著者に拠れば、実用的とは、賢く振る舞うための規則を知っていること。
カント流の道徳的な人倫の法則は、無条件に「~しなければならない」とするが、実用主義の怜悧の法則では、「~したければ~せよ」と思考する。
こういう態度は、理科の実験のような実際的・経験的な知性となじみやすく、観念的な理屈に走らず、現実的な社会改革をめざす態度にもつながっていく。
例えば、
「実験的検証」を重視し「社会制度と関係付けながら論じる」デューイの思考法
と、
「経験、理性、精神といった概念を自明のもの」としてきたイデアリズム(観念論)
「観念説と観念論 イデアの近代哲学史」佐藤義之/松枝啓至/渡邉浩一(編)安部浩/内田浩明/神野慧一郎/戸田剛文/冨田恭彦/松本啓二朗(著)
の考え方の相違を説き明かす。
また、デューイらをふまえた分析哲学やネオ・プラグマティズム、公共哲学にも言及し、哲学の役割や米国社会の行動規範などを改めて学びたい人に本書は役立つと思う。
【参考図書】
「プラグマティズム入門講義」仲正昌樹(著)
「プラグマティズム古典集成―パース、ジェイムズ、デューイ」チャールズ・サンダース・パース/ウィリアム・ジェイムズ/ジョン・デューイ(著)植木豊(訳)
【参考記事】
【関連記事①】
【「ともに考え、わかりあう」道筋】生き方を考える
https://note.com/bax36410/n/nfab0e8b10bb3
今日の政治体制は、近代政治哲学が構想したものである。
【参考図書③】
「近代政治哲学 自然・主権・行政」(ちくま新書)國分功一郎(著)
「はじめての政治哲学」(岩波現代文庫 学術)デイヴィッド・ミラー(著)山岡 龍一/森達也(訳)
「よくわかる政治思想」(やわらかアカデミズム・〈わかる〉シリーズ)野口雅弘/山本圭/髙山裕二(編)
ならば、その基本概念を再確認すれば、いま私達の体制が抱える欠点についても把握できるはず。
グローバル化のなかの共生倫理を考える指標として、以下の政治哲学に関して、
■功利主義
■プラグマティズム
■リベラリズム
■リバタリアニズム
■コミュニタリアニズム
その当時に発刊されていた新書をテキストにして、今回は、「プラグマティズム」について省みたい。
【テキスト①】「悪について」(岩波新書)中島義道(著)
[ 内容 ]
残虐な事件が起こるたび、その“悪”をめぐる評論が喧しい。
しかし、“悪”を指弾する人々自身は、“悪”とはまったく無縁なのだろうか。
そもそも人間にとって“悪”とは何なのか。
人間の欲望をとことん見据え、この問題に取り組んだのがカントだった。
本書では、さまざまな文学作品や宗教書の事例を引きつつ、カント倫理学を“悪”の側面から読み解く。
[ 目次 ]
第1章 「道徳的善さ」とは何か
第2章 自己愛
第3章 嘘
第4章 この世の掟との闘争
第5章 意志の自律と悪への自由
第6章 文化の悪徳
第7章 根本悪
[ 問題提起 ]
いやー、哲学とは難しいものです。
難しくても何かが得られるのならまだしも、ほとんどわからない上に読むとまた新しい疑問が湧いてくる。
しかし、何だか賢くなったような錯覚に陥り、しばらくは読んだ本の受け売りをしたくなったりするがそのうち忘れてしまう。
それなのに性懲りも無くまたときどき手を出してしまい、同じようなことで感心する・・・、という無限運動を繰り返し、そのうちエネルギーが低下して落下していく。
カント哲学研究者であるが、同時に日本の街の騒音と闘い、哲学風エッセイで新書ライターとしてもかなりの存在感を示している、中島義道は私のような懲りない哲学風読物愛好家にとっては絶好の作家である。
しかし、本書「悪について」は同じ著者の『ぐれる!』と同様の受け狙いが前面に出された本のように見せかけながら実はかなり真摯な哲学本であった。
ここで、著者・中島義道という人物に、みなさんどのようなイメージをお持ちだろう。
騒音に対してや、当たりさわりのない「世間語」で本心を隠す人々に対し、怒り、戦う哲学者、というイメージだろうか。
それとも、ウィーン留学時代の体験をはじめ、自分の家族との確執、社会との確執を赤裸々に描き、「生きにくさ」をとことん描き出す人物としてだろうか。
そんな著者が悪について論ずるのであれば、さぞかし過激であろうと期待される向きもあるかもしれない。
[ 結論 ]
確かに、本書にも、
「悪についての私の唯一の関心は、善人であることを自認している人の心に住まう悪である」
とあるから、過激は過激なのだが、しかし、そこから展開されるのは、人間の根本悪を追究したカントの倫理学を丁寧に追った、哲学案内とも言えるものである。
道徳法則への尊敬を優先し、偽らず、誠実に生きる。
そうした生き方は、往々にして世間との摩擦を生じる。
そして意識的か無意識か、自己愛のために、世間と馴れ合って生きることを選択してしまう。
その傾向からは逃れようもないのだが、それでも善く生きようとすること、ここに根本悪の元にある人間の生き方が指し示される。
本書は、カント倫理学の真髄をわかりやすく説き、現代のわれわれの生き方へと架橋する、落ち着いた哲学書である。
難解な「哲学研究」でなく、生身の人間の実感から哲学を語るのは、著者のもう一つの持ち味だろう。
しかし、(哲学自体が本来そういうものなのかもしれないが)当たり前と思っている社会秩序の何かを揺さぶる力を秘めている。
ただ、本書によって我が身の「善良な市民」としての外面をはがされ、改めて生き方を問われるのは、決して不快なことではないのではないか。
「はじめに」で著者はこう書いている。
「悪にまつわる私の唯一の関心は、善人であることを自認している人の心に住まう悪である。
みずからを善人と確信して、悪人を裁く人、悪人を哀れむ人の悪である。」
「本書はカント倫理学を「悪」という側面から追っていったもの、いわば裏側から見たカント倫理学であると言っていい。」
カントの倫理学の基本的なフレーズを引用しながら、わかりやす図示までして、著者はいちばん危険であるとカントが考えた<根本悪>とは何かということを理解させてくれる。
<根本悪>とは殺人犯や放火犯などの「例外的」な犯罪者が持っているものではない。
それとはまったく逆に適法的行為を行いながら、みずからもその適法性を信じながら行動する人間(=ほとんどの人間)の中に巣食うものである。
「文化(礼節)を維持しながら、他人たちの中に交じり合うことそのことが、ヘドロのように大量な悪を算出する。
だが、われわれはそれを避けるわけにはいかないのだ。」(201頁)
しかし、根本悪から人間は脱却できるか?
答えは示されていない。
カントが示したのかどうかも明らかではない。
[ コメント ]
功利主義やプラグマティズムの上に成り立っているように私には思える現代日本に生きる身にとって、このように根源的・徹底的に考えた(ている)人がいるということは心強いことである。
もちろんこんなのはすべて特殊な近代キリスト教西洋文明の産物であるなどと言ってしまうこともできるのであろうが、無視できないのが「理性的存在」である人間の性というか業である。
というと仏教哲学のようになってしまうが。
そう、永遠に悩み続けるのである。
それとも「ぐれる」か?
【テキスト②】「イカの哲学」(集英社新書)中沢新一/波多野一郎(著)
[ 内容 ]
特攻隊の生き残りで、戦後スタンフォード大学に留学した在野の哲学者波多野一郎が、1965年に少部数のみ出版した書『イカの哲学』。
学生時代からこの作品に注目していた中沢新一が、そこに語られている二一世紀に通じる思想を分析し、新しい平和学、エコロジー学を提唱する。
イカが人間とコミュニケーションがとれたら、という奇想天外な発想から、人間同士だけではなく森羅万象と人間との相互関係にまで議論の範囲を広げ、本質的な意味での世界平和を説く。
『イカの哲学』全文収録。
[ 目次 ]
イカの哲学(波多野一郎)
イカの哲学から平和学の土台をつくる(イカとカミカゼ 生命の深みで戦争と平和を考える 実存は戦争を抑止する 超戦争に対峙する超平和 エコロジーと平和学をつなぐ)
[ 発見(気づき) ]
つくづく不思議な本である。
そもそも書名から内容の想像がつかない。
なぜイカが哲学と結びつくのか。
共著者として並ぶ二人の名前の組み合わせにしてもそうだ。
一人は、宗教学に軸足を置き哲学、神話学、芸術と幅広い思想・文化の領域を横断しながら独特のものの見方を創出し続ける思想家・中沢新一。
だが、もう一人の波多野一郎とはいったい誰だろう。
ページを繰ってみる。
一読三嘆とはこのことで、自分がいったいなんの本を読んでいるのかもよくわからないまま166ページを読了する、めまいのするような読書体験だった。
イカから始まった哲学は、戦争と平和を論じ、エコロジー問題を見据える。
どういうことか。
【イカの哲学】6分でざっくり解説要約【中沢新一・波多野一郎】
[ 問題提起 ]
まず、本書は大きく三つの部分から成っている。
中心に据えられているのは、在野の哲学者・波多野一郎が、早すぎる晩年に著した「烏賊の哲学」だ。
本書には、この小さな書物が丸ごと収録されている。
そして、その前後を中沢さんによる導入と論考がはさんでいる。
では、肝心の内容を見てみよう。
「烏賊の哲学」は、アメリカに留学している大学生・大介を主人公とした小説風の作品だ。
ここには波多野自身の経験が投影されている。
中沢の紹介に沿って波多野さんの生涯をまとめておこう。
1942年に早稲田大学に入学するも2年後には陸軍へ入隊。
航空隊に配属され、1945年7月、特別攻撃命令を受けるが、出撃せぬまま敗戦を迎える。
続いてシベリアに勾留され、過酷な状況下での炭鉱労働を経て帰国。
1951年に米スタンフォード大学に留学し、哲学を専攻。
プラグマティズム哲学の研究で修士課程を修了して帰国。
2度の脳腫瘍を乗り越えながら、1965年に「烏賊の哲学」を刊行し、1969年に没する。
「メメント・モリ(死を忘れることなかれ)」とはしばしば口にされる警句だが、彼はまさに否応なく死と直面する特異な状況を生きたのだ。
波多野さんの分身ともいえる大介は、留学先でアルバイトをしながら、或る思想的な境地へと至る。
「烏賊の哲学」は、その思索の過程をきわめて平易な言葉で写した書物だ。
[ 教訓 ]
大介が選んだアルバイトは、魚河岸で1日6~7トンものイカをベルトコンベアに運びあげる仕事だった。
この仕事を通じて、大介は大量に捕獲されてモノ(食料)として処理されるイカの姿に、戦争で大量殺戮された人間の姿を重ねる。
例えば、なぜ人は平気で原爆を落とせるのか。
彼がたどり着いた結論はこうだ。
ちょうどイカをモノとして扱うとき、一匹一匹のイカの実存を考えないように、戦争の殺戮も殺される人間の実存を考えないからできるのである。
ここで言う「実存」とは、あなたやわたしがそうであるように、他の個体と入れ替えることができない存在、この世界のなかで他のものたちとさまざまな関係をとり結びながら現実に生きている存在、というほどの意味だ。
そして、実存の次元から平和を構想しない限り、ますます効率よく大量殺戮が可能になった戦争を、人間はけっしてやめないだろう、と大介は考えるに至る。
ここで興味深いのは、波多野が従来のヒューマニズム(人間中心主義)では平和の構築には足りないと考えていることだ。
なぜなら、人間以外の生命に敬意を持たないヒューマニズムは、戦争の敵を鬼畜(人ではないもの)とみなすとき、容易にその生命を軽んじるだろうからだ。
中沢さんは、波多野さんが到達した境地を、「新しいタイプの強靭な平和学」のための酵母となりうると高く評価する。
その上で、フランスの思想家ジョルジュ・バタイユが構想した生命論(エロティシズム論)を援用しながら、例によって知と非知のはざまをゆく華麗な筆致でその新たな平和学を模索する。
バタイユはこう考えた。
生命には、免疫抗体反応のように自己から異物を排除し続け、非連続性(個体性)を維持する側面がある。
ところが、生命の内部にはその「個体性を壊してまでも連続性を自分の内に引き入れようとする」原理が潜んでいる。
彼はこれを「エロティシズム」という概念で捉え、生殖の瞬間(例えば細胞分裂や受精の瞬間)、それは表面にあらわれ、生と死は極端に近づくと見る。
人間の場合、個体の非連続性(生と死が分離された平常態)は言語や社会のしくみによって保たれている。
その一方で、脳の発達により「遺伝子の受け渡し」のような目的に縛られなくなったエロティシズムの原理は、さらに深いレベルで正反対の活動を行うようになった。
要するに、日常的な社会生活の破壊、戦争や暴力といった死(非連続性の破壊)への衝動は、人間(生命)の本質から生じているというわけだ。
中沢さんはここからもう一歩踏み出す。
もし人間が、こうしたエロティシズムに駆動されて戦争へと向かうのだとしたら、この次元から戦争に拮抗する平和を考える必要がある。
掟や法による日常的な平和、すなわち「平常態の平和」では足りないのだ。
人間を戦争へと向かわせるまさにそのエロティシズムの原理を、平和のほうへ、「エロティシズム態の平和」として作動させる必要がある。
つまり、生物が異物である他の個体を体内に宿し育むこと、またそれを生物的な基盤としてわたしたちが抱く愛や慈悲に、エロティシズム態の平和の鍵がある。
波多野が提示した実存に基づく平和の構想とは、まさにそのようなものであった。
さらに中沢さんは、波多野さんの議論をパラフレーズする。
神話では、しばしば動物と人間が意思疎通したり入れ替わったりすることがある。
ここに示されているのは、人類がかつて、動物を単にモノ(食べ物)として見るだけでなく、人間と同じように実存していることを強く自覚していたということだ。
そして、このために動物の乱獲が防がれていた。
同様に近代以前の戦争においても、人は戦場において敵の中に実存を見ていた。
しかし、社会が脱神話化し、動物や他者の実存を忘れ顧みなくなったとき、動物や人間を単なるモノとして殺す「超狩猟」「超戦争」状態が生じるようになる。
これに抗う「超平和」を実現するためにも、人間のエロティシズム、連続性への志向を別の仕方で作動させねばならない。
つまり、神話的思考がそうであったように、動物や他者の実存への共感をいかにして持てるかということがなによりも重要である。
[ 結論 ]
なるほど動物や他人の実存に誰もが共感を抱き、互いの心中を忖度するようになれば地球は平和になるかもしれない。
だが、人間はそれができず、現に世界中で殺戮と報復の無限連鎖に陥っているのではないか。
こうした反論が口先まで出かかる。
しかし、その悲惨の極限を自ら潜り抜けた波多野さんがその困難を考えなかったはずはない。
それをわきまえた上でなおも実存への共感を説いたことの意味を考えてみる必要がある。
本書の価値はなにより、このような問いを読者に植え付けることにある。
賛成するにせよ、反対するにせよ、「イカの哲学」に触れた読者の脳裏には、この単純だがクリティカルな問題が、波多野の特異な生涯とともに忘れがたい痕跡を残すにちがいない。
そして、40年前の小さな哲学書が、いまなお有効な思考の源泉となることを読み解いてみせた中沢さんの企図もそこにあるはずだ。
考えてみれば、わたしたちは日頃、どのような基準によってか、自分以外の人間や動物に対して、その実存を考える場合と考えない場合がある。
卑近な例で言えば、或る動物(犬やクジラなど)に共感を抱く人からすると、その動物を殺して食べることには抵抗感があるかもしれない。
豚の赤ちゃんを見て「かわいい」と言い、その肉を「おいしい」と言って食べるのも人間である。
また、身近で親しい人と、見知らぬ人や他文化とでは、それぞれに抱く共感の度合は明らかに異なっている。
[ コメント ]
私たちは、この共感の境界をどこまで広げることができるだろうか。
本書は読者にこの問いをつきつける。
これは、例えば、隣人ばかりか敵をも愛せと言ったイエスの思想や、他者を手段としてのみならず目的として扱えというカントの倫理思想、短期的な利潤を目指す「合理的」な追求が長期的には地球環境を破壊する「不合理」な行動になりかねないと指摘するエコロジー思想などにも呼応する、古くて常に新しい問題である。
白黒の答えをズバリと出すというよりは、日々の現実に接しながら、この割り切れない問題を抱え、建設的に考えを展開すること。
これこそまさしく哲学という営みに他ならない。
そのような思考を経ることで、世界の見え方は変わる。
ちょうど波多野さんが過酷な体験から戦争と平和という難問を抱えたがために、それまで彼にとって変哲もなかったはずの生き物の意味がガラリと変わって見えたように。
【関連記事②】
【政治哲学で今後の生き方を学ぶ】クリスチャンリアリズム
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