【日常茶飯事】ぱっと思いついたアイディアは即文章に!
自分がやりたいと思っていることを、心の奥底にしまって、表現する機会を待っていませんか?
だけど、周りの波を、よくよく見てください。
そろそろ、準備をしてもいいのではないだろうかって時機にきていませんか?
人は、何かをやり始めようとしたときの精神は、とても素晴らしいと思います。
その上、とてもエネルギッシュであもあります。
それに感銘を受けて、色んな人たちが集まってきます。
時機を逃してはいけないんですよね!
純真な精神を失わないうちに、自分の頭や、心の中にある思想を書き出し、整理しておきたいものです。
大きなことじゃなくてもいいと思うんです。
他人と比べることなく、自分にとっての大切な準備だと思えばいんですよね。
ただ、何となく始めるよりも、自分の進む道を思い描きながら、始めるほうが、やりがいがあると思います。
思い立ったが吉日です(^^)
何か1つやり始めても、いいのではないでしょうか?
ひらめきが逃げていかないように☆
さぁ~今、直ぐにでも、初めてみましょう!
【今日の短歌】
■ダダイズム(「思いつき」の芸術)
「カカカカカ キキキキキキキ ククククク ケケケケケケケ コココココココ」
(伝ナムジュン・パイク)
春日井建『水の蔵』
「あああああああああああああああああああああああああああああああ」
「 」
■アイディア
「管理ニモ監視ニモ慣レヒグラシノ我等完全無欠ノ死体」
(森本平『讒謗律』より)
「───、そして気がつけば君は子犬を抱き上げている」
(森本平『空を忘れず』より)https://www.shoshitakou.com/items/57557809
「ノウミソガズガイノナカデサドウシテセカイハイミトコトバニミチテ」
(森本平『モラル』より)
「だるい、隣のトマトを犯してみたい――――――――無眼耳鼻舌身意」
般若心経「無眼耳鼻舌身意(むげんにびぜつしんい)」
私たちは眼と耳と鼻と舌と体と心とを使って、この世の成り立ちやらさまざまな現象を認識します。
その感覚器官は一定でなく、その時の条件でいつも揺れ動いています。
正しい判断をしたとしても、条件が変わるともう正しいとはいえません。
感覚器官で認識したものだけにとらわれてはいけないということです。
「去年、メキシコ生まれの娼婦を買った―――――――無色聲香味觸法」
般若心経「無色声香味触法(むしきしょうこうみそくほう)」
色声香味触とは、眼耳鼻舌身意の六根が感じる対象のことです。
六根の感覚器官がなければ、もちろん感じる対象もありません。
自分が感じたことだけを正しいと思い込み、その価値観を人に押しつける人が時々ありますが、それは自分への執着によるこだわりです。
執着を捨てることからすべてははじまると、この経は説いています。
「泣いた、右の乳首を噛みちぎったら――――――無限界乃至無意識界」
般若心経「乃至無意識界(ないしむいしきかい)」
人はなかなか自分を捨てられるものではありません。
大体において、人は自分の立場からものごとを見るものです。
自分の立場とは、どうしても自分を守ろうとするものであって、そこに執着が生まれます。
そこからすべての煩悩が発生するのです。
空の根源的な意味は、執着を離れるという意味なのです。
「思う、這いずりまわる私は犬だ―――――――――無無明亦無無明盡」
般若心経「亦無無明尽(やくむむみょうじん)」
無明はないのではあるが、無明がなくなるということもないというのは、すべてが空であるというところからいえるのです。
無明がなくなったらさとりの境地となりますが、そもそも無明はないのですから、ないものをなくしてもさとりは得られないという理屈になります。
さとりにひきずられるなということです。
「犬は、無駄にペニスをたたせて眠る――――――――――乃至無老死」
般若心経「亦無老死尽(やくむろしじん)」
老いや死にとらわれなくなれば、そこには充実した時間があるということです。
若いというほうに絶対的な価値を置けば、老いとは苦しみでしかなくなってしまいます。
お釈迦さまは八十歳の弱った老体で最後の旅をし、最後の最後まで道を説き、死が苦しいなどと一言もおっしゃらず、これで修行が完成すると喜んで入滅されました。
(森本平『森本平集』より)
【参考記事】
その十一 接待の心得[無眼耳鼻舌身意無色聲香味触法無眼界乃至無意識界]
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