【LAWドキュメント72時間】人類の「奮闘と哀楽」を味わう悦楽
■歴史とはなにか
「歴史とはなにか」(文春新書)岡田英弘(著)
[ 内容 ]
世界には「歴史のある文明」と「歴史のない文明」がある。
日本文明は「反中国」をアイデンティティとして生まれた。
世界は一定の方向に発展しているのではない。
筋道のない世界に筋道のある物語を与えるのが歴史だ。
「国家」「国民」「国語」といった概念は、わずかこの一、二世紀の間に生まれたものにすぎない…などなど、一見突飛なようでいて、実は本質を鋭くついた歴史の見方・捉え方。
目からウロコの落ちるような、雄大かつ刺激的な論考である。
[ 目次 ]
第1部 歴史のある文明、歴史のない文明(歴史の定義 歴史のない文明の例 中国文明とはなにか 地中海文明とはなにか 日本文明の成立事情)
第2部 日本史はどう作られたか(神話をどう扱うべきか 「魏志倭人伝」の古代と現代 隣国と歴史を共有するむずかしさ)
第3部 現代史のとらえかた(時代区分は二つ 古代史のなかの区切り 国民国家とはなにか)
[ 問題提起 ]
歴史とは、時間と空間に沿いながら一個人の体験を超えて、人類の住む世界を把握する営みである。
このように定義した著者は、歴史を成り立たせる4つの要素として、文化として直進する時間の観念、暦など時間を管理する技術、文字で記録をとる技法、時間と時間との間に因果関係があるという感覚をあげている。
[ 結論 ]
面白いのは、「歴史のない文明」「歴史のある文明」という考え方である。
とくにインド文明はもともと歴史をもたないというのだ。
それはインドに特有の転生(魂の生まれ変わり)の思想と関連がある。
天や阿修羅や人間など「六道」の衆生が転生するサイクルつまり「輪廻」の思想では、前世が原因、今生が結果、さらに今生が原因、来世が結果とされるので、人間界の出来事だけを記録してみても、因果関係を十分に理解したことにならないからだ。
イスラームも一瞬一瞬が神の創造にかかっている以上、歴史のない文明のはずだが、歴史のある文明の地中海文明と対抗する上で歴史をもったという。
岡田氏は、その理由を歴史が「自分の立場を正当化する武器として威力を発揮する」とイスラーム文明が考えたからだとする。
またアメリカ文明では、ヨーロッパと違って歴史が意味をもたないというのもユニークな考えであるが、個人の意志と憲法によって「アメリカ人」になれるという信念は確かに世界史上他に類を見ないだろう。
ヘロドトスと司馬遷に象徴されるように、中国文明と地中海文明がともに自前の歴史を生んだというのは、かなりの説得力をもっている。
しかも、それぞれにある歪みが生まれたのも事実だ。
中国では天命を強調した『史記』の業績をなぞるあまり、その後の正史は、天下に変化があっても記録せず天命を受けた皇帝の支配をそのまま叙述することを仕事とした。
そこで中国の歴史には発展がないかのような誤解を受けることになったのだ。
他方、地中海文明の歴史は、ヘロドトスの『ヒストリアイ』がヨーロッパとアジアを「永遠に対立する2つの勢力」と考え『ヨハネの黙示禄』がサタンの軍勢と主の軍勢の対決を強調したように、さながらアジアをサタン陣営、ヨーロッパを主の陣営と同一視する歴史観をもたらした。
これは、十字軍の事例に限らない。
ヨーロッパがアジアを征服するのが正義の実現であるかの歴史観は、20世紀末のフランシス・フクヤマやハンチントンなどにも痕跡をとどめているのであり、岡田氏の見方はそれなりに鋭いのである。
著者は、歴史を物語りや文学であっても、科学ではないと断言する。
科学は実験できるが歴史は一回しか起こらないからだ。
科学では粒子の違いが無視され法則こそ問題にされるが、歴史では一人一人がみんな違うのである。
記述する人、読む人はみんな個性を持っているのだ。
[ コメント ]
歴史には「良い歴史」と「悪い歴史」があるというのも岡田氏独自の表現である。
歴史は法廷でない以上、道徳や功利にもとづく価値判断とは関係がない。
歴史家が目指すものは、「真実」それも「歴史的真実」である。
「よい歴史」とは「史料のあらゆる情報を、一貫した理論で解釈できる説明」だといういうのは正しい。
人や国にはそれぞれの立場がある以上、「よい歴史」が他人や他国に歓迎されるとは限らないとは、まさに現代的な指摘であり、今後の論議の深まりを期待しておきたい。
■日本人の歴史意識
「日本人の歴史意識 「世間」という視角から」(岩波新書)阿部謹也(著)
[ 内容 ]
歴史好きだといわれる日本人だが、その一方で歴史意識の欠如が問われることも多い。
日本人にとって歴史とは何だろうか。
これまで「世間」という視角から日本社会・日本人を論じてきた著者が、西欧社会と比較しながら、「世間」を歴史侵に分析して、日本人の歴史認識の根底にあるものは何かを考察する。
[ 目次 ]
第1章 古代の知識人と「世間」
第2章 古代の民衆と「世間」
第3章 呪術を否定した親鸞
第4章 「世間」における歴史の位置
第5章 「世間」の世俗化
第6章 西欧における近代の始まり
第7章 日本近代の二重構造―制度と人間関係
第8章 西欧における歴史意識と歴史学
第9章 日本人にとって歴史とは何か
[ 問題提起 ]
日本独自の生活の形である「世間」。
本来は仏教用語で、サンスクリットのloka(ローカ)の訳語であり、「壊され、否定されてゆくもの」の意です。
そこには「贈与・互酬の原則」「長幼の序」「共通の時間意識」が働いています。
また、そこで隅々にまでゆきわたっているのは呪術です。
「歴史」は、この「世間」にとっては外在的な与件、突発的な事件にすぎません。
明治維新後日本は近代化に邁進したが、この「世間」は脈々と日本人の生活様式に、感覚に残存しています。
[ 結論 ]
一方「歴史認識」というのは、「社会現象を時間的契機において捉え、その推移に主体的にかかわりあってゆこうとする意識」です。
著者はこのコンセプトを、『日本霊異記』をはじめ、多くの古典のなかに確認しています。
他方、「世間」に支配的だった呪術は、西洋では12世紀には否定されていました。
そのことは、『奇跡を巡る対話』に明確に伺えるそうです(著者は日本では呪術を否定した親鸞に着目しています)。
歴史認識は、日本と西欧とでは全く異なります。
西欧では個人の視点から、歴史を時間継起的に捉えていく眼があります。
他方、日本では学者レベルでも、歴史はそのように把握されず、円環運動として、外在的にしか認識されません。
著者はフーコーの内面の発見、ハインペルの歴史学、カーの歴史認識でこのことを例証しています。
「『世間』のなかで暮らしながら歴史と直接向き合うためには『世間』と闘うという方法」「自分の周囲にある『世間』を歴史として対象化する方法」の2つがあると、著者は結んでいます(pp203-204)。
ヨーロッパ史家である阿部謹也の「世間」論とは何か。日本では明治初期に、society、individualの訳語としてそれぞれ「社会」、「個人」という訳語を当てました。
それ以前は19世紀半ばにわずかに「社の会派」という意味で使用されたに過ぎず、現在の意味での「社会」という概念に近いのは「世間」という概念でした。
しかしこの「世間」は厳密には欧米の「society」とも異なり、日本独特の概念だと言います。
阿部氏は「世間」を以下のように概念規定します。
世間とは人を取り巻く人間関係の枠であり、現在と過去に付き合ったすべての人々、将来付き合うであろう人を含んでいます。
ここに外国人は含まれません。「世間」には贈与・互酬の原則があり、長幼の序、そして時間意識の共通性(「先日は~」「今後とも~」など)という特徴があります。
この世間には死者も含まれ、呪術的な関係を含んでおり、一人一人の人間は「世間」の中では全体と密接な関係をもって生きています。
阿部氏は、「社会」と「世間」との違いを「個人」との距離感に求めます。
欧米では12世紀以降(特にはルネサンス以降か)「個人」が徐々に形成されていきました。
日本では明治以降欧米的な「個人」の概念が浸透していきますが、それでもなお現在における「個人」の意味は欧米のそれとは決定的に異なっているといいます。
なぜなら日本には「世間」という人と人との絆があり、その「世間」が個人を拘束しているからです。
私たちはなるべくこの「世間」に合わせなければならず、突出した意見はせずに控えめな目立たない態度が求められます。
会社・役所・クラブ・学校などなどは、みなこの「世間」をなしており、私たちは自分の振舞いの結果「世間」から排除されるのを最も恐れて暮らしているといいます。
まあこの「世間」からはみ出すような人間が「はみ出し者」「変わり者」「変人」「アウトサイダー」、そして時には「KY」などと言われるのでしょう。
会社や役所で不祥事が起きた時に「世間をお騒がせして申し訳ない」と謝罪する(これは欧米の言葉でうまく翻訳できないらしい)のは、自分は無実だが「私が関わっている世間」に迷惑をかけたことをお詫びするというのと同義なのだといいます。
以上のように、世間とは「社会」とは違って、比較的狭い範囲の人間関係なのです。
[ コメント ]
「社会とは場の雰囲気を大事にするものだ」というのは、実は「世間とは場の雰囲気を大事にするものだ」ということだと思いました。
結局はそれが良いか悪いかは別として、自らが属する「世間」から排除されるのを恐れるあまり、日本人全体が「必死で空気を読」もうとしているのではないでしょうか。
これは心情としては当たり前のことでしょう。
が、先にも言ったように、そのような個人を「排除」する空気を作ってしまう「世間」の側が、もう少し寛容になってもよいのではないでしょうか。
まあ「世間」というのはそんな生易しいものではないかもしれないけど・・・
■歴史教育を考える
「歴史教育を考える 日本人は歴史を取り戻せるか」(PHP新書)坂本多加雄(著)
[ 内容 ]
本書では、象徴天皇制度の意味づけ、戦争における正義と正常の違いなど、近・現代史を中心に戦後的歴史教育を見直すための重要な論点を提示していく。
歴史学者として単なる事実研究にとどまらず、その社会的役割に真摯に挑んだ一冊。
[ 目次 ]
序章 歴史教育問題の核心
第1章 歴史教育とは何か
第2章 国の歴史とは国民の物語
第3章 歴史における正義と正常
第4章 倫理的視点と戦争犯罪
第5章 愛国心と歴史の連続性
第6章 近代史を見直す
第7章 世界史への日本の貢献
終章 歴史の重さについて
[ 問題提起 ]
左翼をしても「非常に反論しづらい」と言わしめる本。
新書なので、一般の人でも読みやすい。
著者は、歴史教育とはそもそもなぜ行われるのか、というところからきちんと論じていく。
これは現在の教育論においても欠いている視点ではないだろうか。
著者と意見を異にする人でも、考えるに値する問いかけであろう。
そして、唯一・客観的な歴史なるものが存在し得ないことを指摘した上で、歴史教育は歴史を共有することによって国民意識を形成するものであるとする。
それを軸に据えて、何を歴史の中で教えるべきか、を論じていく。
本書は、2002年に惜しくも早逝された坂本多加雄・学習院大学教授の遺著だが、今読み返してみても、その歴史等に対する良質な思考の意義は全く薄れていない。
従って、昨今の歴史教科書問題や皇室典範改正問題を考えるとき、著者が語る「国の歴史とは国民の物語」という観点が、実は大事なポイントになってくる。
[ 結論 ]
そもそも「歴史とは、常に解釈された歴史」であり、「事実の集まりがただ歴史を構成するわけではない」(佐伯啓思『「市民」とは誰か』)からである。
ところで「物語」というと、それは“フィクション(虚構)”ではないか、と口を尖らす向きもあるだろう。
だが、この世界の中で、国家(国民)の来歴を“フィクション”で彩りしていない国はないし、「国家はまず、完全に想像力の産物として生まれるものである」(オルテガ・イ・ガセット『大衆の反逆』)のだ。
それぞれの国は、当然の事ながら、固有の来歴を持っている。
故に、他国と共通する歴史教科書など絶対に作れないし、皇室の問題もこうした視点から論議されるべきであろう。
私が本書から学んだ点で特筆すべきことは、歴史教育の問題よりも、我々が深く考えることをせずに、如何に多くの間違った思い込みをしているかである。
例えば、『アンネの日記』の主人公・アンネを戦争犠牲者として捉えてしまうことだが、彼女の命日より以前、ドイツの支配が近隣諸国に及んでいた段階で停戦が実現していたとしても、彼女が強制収容所から解放されていた可能性は低い。
[ コメント ]
なぜなら、ユダヤ人抹殺は戦争行為の一環でなく、ナチスの政治目的だったからである。
彼女はユダヤ人抹殺計画によって殺されたのであり、戦争犠牲者ではないのである。
こう言った『アンネの日記』を反戦作品としてしまうような思い込みを払拭していくと、今までとは違った歴史が見えてくる。
その点で非常に参考になるのが本書である。
■新しい社会
「新しい社会」(岩波新書)E.H.カー(著)清水幾太郎(訳)
[ 内容 ]
われわれはいま新しい社会の入口にたっているとカーは訴える
新しい社会とはいうまでもなく社会主義社会である
この社会は,歴史の進歩を信ずるものにとって不可避的なものである
この新しい社会を支える政治,経済,思想など,およそ一切の問題を歴史の流れのなかに生き生きととらえ,これに的確な批判と展望とを与える.
[ 目次 ]
1.脅かされる民主主義
2.新しい世界での新しい政治学
3.歴史は連続している
4.おわりに
[ 問題提起 ]
歴史とは何か?
根本的な質問でありながら、最も答える事が難しい問いに答えようとしたカーの意欲作。
何よりも、歴史における「解釈」の重要性を指摘し、従来の実証主義歴史学で信奉された「歴史の客観性」を否定した。
「歴史とは現在と過去の対話」(p.40)と言うカーの最も有名な言葉があるが、しかし私は、カーの最も重要な言説は、第4章最終ページにある「未来への意識」(p.160)だと思っている。
[ 結論 ]
歴史・宗教・民族。
これらはすべて琴線に素手で触れてしまう危うさを秘めているため、どうしても扱いにくいと思うのは、私だけではあるまい。
ことに「歴史」という言葉を目にする時、その意味は、「事実」、「まつわる感情」、「歴史という名の履歴の見方」等々、完全にとは言わぬまでも、分割すべきものが、ないまぜとなっている気がする。
本書は、小生が示したもののうち、「歴史という名の履歴の見方」つまり「歴史哲学」について再考を促す書物である。
著者E・H・カーは、1962年の本作出版時、トリニティ・カレッジのフェローであった。
この著作はケンブリッジで1961年に行われた連続講演を基に仕立て上げられたもので、とても読みやすく、問題点がよく分かり、また原注も丁寧である。
著者のスタンス(視点)は、あくまで冷静・穏健でありながら厳しい。
それは『歴史を研究する前に、歴史家を研究してください』そのためには『歴史家の歴史的および社会的環境を研究して下さい』という主張に現れている。
つまり、歴史は、歴史家を通じて届けられる『社会的産物』(3点とも同書p61 より)であることに注意せよ、という事で、まさにこの点を意識しつつ、目次に掲げられた6項目について述べているのである。
歴史哲学というと、へ―ゲルなどに見られる「史観」という看板のもとに、ややもすると、強引な押し売りが目に付くが、本書は、たとえそのような事が後に明らかになったと仮定しても、極めて地に足のついた秀作であると、私は感じた。
よって推薦したい。
なお現代においてのスタンスは、『岩波講座 世界歴史 第一巻』に手際よくまとめられているので、こちらも参考になる。
[ コメント ]
なお、カーの根底に流れる進歩史観、そして「理性」に対する見解は、特に第5、6章で述べられており、ここだけでも必読に値する。
これを読んだ後、漠然とながらも学問の未来に対する深い期待を抱かされた自分がいた。
個人的には、第1章p.7で述べられている、歴史家にとって事実に正確であると言う事を賞賛する事は、「よく乾燥した木材を工事に用いたとか、うまく交ぜたコンクリートを用いたとかいって建築家を賞賛するようなものであります」と言う文章が一番好きである。
これを読んだ後、自分の中でイェリコの壁が音を挙げて崩れたのを今でも思い出す。
しかし、ちょっと分かりづらい面が幾つかある。
その為、カーの『新しい社会』と一緒に読んでみると、彼の世界観がより一層理解しやすくなると思う。
【これは読んでほしい!】歴史家E.H.カーのおすすめ名著6選
■旧石器・縄文・弥生・古墳時代 列島創世記
https://www.suntory.co.jp/sfnd/prize_ssah/detail/2008sr2.html
■岩波講座 世界歴史 第1巻 世界史とは何か
■100のモノが語る世界の歴史
ハリウッド映画「ハリー・ポッター」第1作に登場する《ルイス島のチェス駒》。
日本の教科書にも紹介されている《ウルのスタンダード》。
ロンドンにある大英博物館は、人類の文化遺産の殿堂として世界中のあらゆる地域と時代を網羅したコレクションを誇ります。
本書は、700万点を超える収蔵品から選び出した100作品を通じて、200万年前から現代に至る人類の創造の歴史を読み解こうとする試みです。
「100のモノが語る世界の歴史 (1)」(筑摩選書)ニール・マクレガー(著)東郷えりか(訳)
「100のモノが語る世界の歴史 (2)」(筑摩選書)ニール・マクレガー(著)東郷えりか(訳)
「100のモノが語る世界の歴史 (3)」(筑摩選書)ニール・マクレガー(著)東郷えりか(訳)
選ばれた品々は、一見して何気ない日用品から教科書にも登場する芸術的な名品まで多岐にわたります。
100の「物」たちは、それらを手にした人々の日々の営み、信仰の対象、激動する社会背景など、様々な「歴史の断片」を私たちに語りかけます。
中には初めて目にする地域や文化からもたらされた物もあることでしょう。
一方、私たちになじみ深い文化が残した物にも、思いがけない発見があることに驚くはずです。
本書を通じて、地球をめぐる時空を超えた世界旅行を楽しんでみて下さい。