【LAWドキュメント72時間】現在の行動が過去の意思決定に縛られていては、この世界の不確実性にいいように振り回されるだけ。
日本の歴史・文化を俯瞰して考えてみると・・・
あいまいなまま、はっきり境界を引かずに。
入れ替わり、立ち替わり、コロコロと歴史や文化が変わっていくところが特徴的であったはず。
言い換えると、
「メビウスの輪」
みたいなイメージと言える。
人も、国も、以下の様に、誤ったところを直しながら、進んでいた我が日本社会。
・言語:文字を手に入れるべく漢字(真名)に取り組んでみたら、ひらがな(仮名)が生まれた。
・神仏:土着の「神」と渡来の「仏」に優劣をつけず、神宮寺や神前読経で神仏習合。
・歴史:「冥」と「顕」のせめぎ合いの中で歴史が生まれる(慈円「愚管抄」)
・茶道:村田珠光「和漢のさかいをまぎらかすこと肝要」。表千家・裏千家。
・主客:主客未分を追求する、禅・茶道・西田幾多郎。
そんな日本の国、人に、今、必要なのは、
「訂正する力」
であると、本書では指摘している。
「訂正する力」(朝日新書)東浩紀(著)
現代の日本社会は、
「大胆な改革が必要だ」
とメディアは叫ぶが、政治も変わらず、経済も沈んだままで、行き詰まり、何も進展せずに、むしろ後退している状況だと言える。
この状況下において、もし、日本が変わるとしたら、そこで必要なのは、トップダウンによる派手な改革ではなく、
・動く人
・挑む人
・粘る人
・閃く人
・創る人・
・話す人
等、そこに共通するのは、いつも、誰かの役に立ちたいと想っているということであり、ひとりひとりが、それぞれの現場で、現状を、少しずつ変えていくような地道な努力ではないかと考えられる。
そういった小さな変革を後押しするためには、
「蓄積されてきた過去」
を、
「再解釈」
し、
「現在に蘇らせるための哲学」
が必要であり、本書が言う
「訂正する力」
とは、そうして、
「現在と過去をつなぎなおす力」
のことだと指摘している。
①「訂正する力」とは、単に誤りを認めて正すのではなく、一貫性を持ちながらも変化していく力のことである。
②現代日本では空気の力が強い。
単なる批判は、批判という空気をつくるに留まってしまう。
必要なのは、
「これこそが本当のルールだったのだ」
と主張しながら一貫性を守り、少しずつルールを変えていくことで気がつけば変化が起きている、といった「訂正」の営みである。
③「訂正の力」の核心は、
「じつは……だった」
という発見の感覚にある。
これはAIにも代替できない、人間らしい感覚だ。
確かに、日本には、
「変化=訂正を嫌う文化」
があり、
・政治家は謝らず
・官僚はまちがいを認めず
・決定された計画を変更しようとしない
等々、訂正することを極度に嫌う負の文化が構築されている。
更に、ネットでは、過去の発言と矛盾すると炎上したりもする。
そんな社会、世間で暮らせず、異なる立場の人たちが、対話によって、少しずつ意見を変えていくこともできず、政治的な議論が、成立しなくなっている共同体が形成され、閉塞状態に陥っているのが、今、生きている社会である。
だからこそ、
「まちがいを認めて改めるという『訂正する力』」
が必要なのであり、
「まかせられる人が、いる。」
社会が重要だと考えられる。
訂正するとは、
「一貫性を持ちながら変わっていくこと」
が必要ではあるが、これは、決して難しいことではなく、我々が、日常的に行っていることでもある。
本書の内容で、気になったポイントは、以下の通りである。
・「訂正する力」とは、過去との一貫性を主張しながら、実際には過去の解釈を変え、現実に合わせて変化する力のこと。
「リセット」願望の強い今の日本に足りない力。
・訂正する力を現実から目をそらすために使ってはいけない。
現実を再解釈するために使うべき。
・訂正する力の対局にあるのは、
「ぶれない」
ことをアイデンティティにすることや、議論に勝敗をつけようとする
「論破力」
である。
・文化や慣習はリセットしようとしても元に戻ってくる。
だから過去の記憶を訂正しながら、だましだまし改良する以外に前進できない。
この点に関して、視点を切り替えてみると、欧米の人々は、訂正がうまい。
欧米の国々は、ルールを容赦なく変えて、自分たちに有利な状況をつくり出しながらも、一方で、行動や指針が一貫して見えるように、一定の理屈を立て、論理的な思考であると見せかけている。
そういった
「ごまかしをすることで持続しつつ訂正していく」
のが、
「欧米的な知性のあり方」
なのだから、その点を日本も学ぶべきであり、本来、日本も、こうしたしたたかさを持っていたはずなのだが、それが失われてしまっている現状にあるのが残念でならない。
では、
「どうすれば訂正する力を取り戻すことができる」
のだろうか。
現代の日本社会においては、
「社会の無意識的なルール」
すなわち、
「空気」
が、常に、障害となっている。
個人が他人を気にするだけでなく。
その他人自身もまた、他の人の目を気にするという、なんとも厄介な入れ子構造をもつ。
そうして、
「相互に監視」
するなかで、
「だれもが社会の無意識なルールにしたがってしまう」
のが、今の日本社会、つまり、
「世間」
なのである。
世界を変えるのは、政治や革命だけじゃないはず。
そのひとつが、小さなケアの積み重ね(感覚)なのだと思う。
飾るのではなく、愚直に。
抽象的ではなく、具体的に。
目の前を、放っておけない。
もっと、よくしたい。
そう繋がっていくことで、今より、その先の世界は、きっと美しいと考えられないだろうか。
但し、空気の変化の切れ目は、だれにもわからないし、コントロールもできないといった事実が存在している。
そんな空気を批判しようとしても・・・
その批判そのものが空気になり・・・
しまいには、そうした
「新たな問題提起に考えなしに追随するひとが現れてしまう」
大衆が生まれていく。
極めて厄介な社会構造を形成しているのである。
こうした空気は、たぶん
「変えましょう」
といっても、それが
「新たな空気」
になるだけであり、その空気の中にいながらにして、
「いつのまにか変わる」
ように仕向けるしかないのだと推定される。
そうしたアクロバティックなことを成し遂げるための道具が、この
「訂正する力」
なのだと、本書で述べられている。
これは、フランスの哲学者、ジャック・デリダが唱えた
「脱構築」
に似ており、表面上は、伝統的なルールに従っているように見せながら、そのルールを突き詰めて考えることで、西洋的な哲学の型を根本的に変えてしまう。
そうした脱構築的な手法しか、もはや日本社会に対して、有効な手立てはないかもしれない。
水面下で、ルールを訂正しながら、
「いや、むしろこっちこそ本当のルールだったんですよ」
と主張する。
そうして、
「現在の状況に対応しながら過去との一貫性も守る」
という
「両面戦略が不可欠」
であり、国民自身が、そのことを理解し行使すべきなのだと考える。
国でも、人でも、現在の行動が、
「過去の意思決定」
に縛られていては、この世界の不確実性に、いいように振り回されるだけである。
だから、
「偶然の幸運」
を、つかみやすい人生を送るためにも、
「訂正する力」
を、養うことが、大切なのだと思う。