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【書棚は一冊の辞書】「快楽の本棚 言葉から自由になるための読書案内」(中公新書)津島佑子(著)

[ 内容 ]
言葉から自由になりたい。
物事の本質をつかまえるために、自分という生命を喜ぶために。
『孝女白菊の歌』から『チャタレー夫人の恋人』、そしてフォークナーの世界へ。
海流のように、竜巻のように渦巻き、再生しつづける物語の世界。
言葉と人間、人間と物語、そのつながりには、希望を失わずに生きつづけようとする、ひとりひとりの人間たちの息吹がある。
美しく静かな言葉で、著者は物語の意味を問い直す旅に出かける。

[ 目次 ]
魔法の世界―幼年時代
おばけの話―小学時代(1)
言葉を遊ぶ―小学時代(2)
アガペとエロス―中学時代
「危険な」小説―『ベラミ』
性の修行者―『好色一代男』
神々から人間へ―『源氏物語』
猥褻か、芸術か―『チャタレー夫人の恋人』
同性愛―サッポーとワイルド
タブーとは?―『悪魔の詩』と『細雪』
神々の時間の「発見」―フォークナー、そして辺境の文学
もうひとつの世界―『ギルガメシュ叙事詩』からどこへ

[ 発見(気づき) ]
【オールドタイプ】綿密に計画し、粘り強く実行する。

【ニュータイプ】とりあえず試し、ダメならまた試す。

「賢人とは人生を楽しむ術を心得た人 人生を浪費しなければ、人生を見つけることはできない。」――アン・モロー・リンドバーグ

17世紀にオランダのハーグで活躍した哲学者のスピノザは、人であれモノであれ、それが

「本来の自分らしい自分であろうとする力」

「コナトゥス」

と呼んだ。

コナトゥスという言葉は、もともとラテン語で、

「努力、衝動、傾向、性向」

といった意味である。

スピノザは、その人の本質は、その人の姿形や肩書きではなく、このコナトゥスによって規定されると考えた。

当然のことながら、コナトゥスは多様であり、個人によって異なる。

さて、私たちは、

「良い・悪い」

という評価を、社会で規定された絶対的尺度として用いているが、スピノザによれば、それらの評価は、相対的なものでしかなく、文脈に依存して決定される。

では、どのような文脈に依存するのかというと、その人の

「コナトゥスを高める」

のであれば、

「良い」

ということになり、その人の

「コナトゥスを毀損する」

のであれば、

「悪い」

ということであり、スピノザは、そもそも、この世に存在しているあらゆる個体は、それぞれが、それ自体として、完全性を有している、という前提があると考えて、既に完全性がある以上、

「自己を改変する」

よりも、

「本来の自己であろうとする」

方が重要であり、そのため、コナトゥスが重要になると考えていた。

つまり、この世に存在しているあらゆるものは、それ自体として、

「良い」とか「悪い」

ということはなく、その人のコナトゥスとの組み合わせによって決まる、とスピノザは考えたわけである。

例えば、もし、

「私たちが自然の中に身を置いて活力が高まるのを感じた」

のであれば、

「自然はあなたのコナトゥスにとって良い」

ということになる。

一方で、

「孤独に苛まれやすい人が自然の中に身を置いて疎外感を感じた」

のだとすれば、

「自然はその人のコナトゥスにとって悪い」

ということになってしまう。

スピノザの賢人観も、また、このような思考の延長線上にあり、この賢人というのは、

①自分のコナトゥスが何によって高められ

②何によってネガティブな影響を受けるかを知り

③結果として人生を楽しむ術を心得た人

だということになる。

「もろもろの物を利用してそれをできる限り楽しむ(と言っても飽きるまでではない。なぜなら飽きることは楽しむことではないから)ことは賢者にふさわしい。

たしかに、ほどよくとられた味のよい食物および飲料によって、さらにまた芳香、緑なす植物の快い美、装飾、音楽、運動競技、演劇、そのほか他人を害することなしに各人の利用しうるこの種の事柄によって、自らを爽快にし元気づけることは、賢者にふさわしいのである。」――スピノザ『エチカ(下)』第四部定理四五備考

[ 問題提起 ]
作家 津島佑子の自伝的な読書案内。

太宰治の娘であるが故に、母親は娘を文学から遠い場所で生きるように導こうとした。

文学は暗くて危険なものだと思い込ませた。

結果として娘は本当のことを知りたい欲望から文学の世界へと引き寄せられていく。

[ 教訓 ]
今、私たちは、極めて変化の激しい時代に生きている。

そして、私たちを取り巻く事物と、私たち個人の関係は、常に、新しいものに取って代わられていくことになる。

このような時代にあって、

「何が良いのか悪いのか」

を、世間一般の判断に基づいて同定することはできない。

それでは、私たちが、

「自分の人生」

「賢人となって楽しむ」

ためには、どうすればよいのか?

つまるところ、

■さまざまなものを試し

■どのような事物が自分のコナトゥスを高めるか

■どのような事物が自分のコナトゥスを毀損するか

を、

「経験的に知っていくこと」

が必要になる。

現代社会において、各自の力量において、可能な範囲で、この

「試す」

ということが、スピノザの哲学において、極めて、重要なポイントである。

私たち各々のコナトゥスは、ユニークなものである。

だからこそ私たちは、さまざまなことを試した上で、それが自分のコナトゥスにどのように作用するかを内省する必要がある。

その結果、自分なりの「良い」「悪い」という判断軸を作っていくことが必要だと、スピノザは説いたのである。

これに対置される考え方が、姿形や立場によって、その人の「良い」「悪い」を確定してしまうという考え方でる。

「本来の自分であろうとする力=コナトゥス」

という本質に対して、自分の姿形や立場などの形相をギリシア語では、

「エイドス」

と呼ばれていた。

例えば、男性・女性というのは一つのエイドスであるが、では、だからといって、

「あなたは女だから、これが好きなはずだ」

「あなたは男だから、こうするべきだ」

というのは、コナトゥスを無視した押し付けになってしまう。

そのように、押し付けられたものが、本当に、その人のコナトゥスを高める「良い」ものであるかどうかは解らない。

私たちは、自分の姿形や立場といったエイドスに基づいて、

「私はこうするべきだ」

「私はこうしなければならない」

と考えてしまいがちである。

しかしながら、このような

「エイドスに基づいた自己認識」

は、往々にして

「個人のコナトゥスを毀損」

し、

「その人がその人らしく生きる力」

を、阻害する要因となっていることに注意したい。

このような変化が激しく、

「良い・悪いの観念」

が、

「暴力的に他者に押し付けられる時代」

だからこそ、私たちは、

「自分のコナトゥスを高める事物」

を、様々に試していくことが必要となり、そのひとつのアプローチが、本書に示された

「快楽の本棚」

を、自ら創造することでもあると考えられる。

[ 結論 ]
津島佑子さんは、性への好奇心が文学の入り口となり源氏物語、好色一代男、発禁処分の『チャタレー夫人の恋人』を英文で読んだ。

長大な里見八犬伝を「壮大なでっちあげ」への感動で読破する。

読んではいけない本、見てはいけない映画に夢中になる。

あらゆるものから自由になるために。

「「背徳的」とはつまり、自分の生きている世界をしつこく疑い続けること、おとなたちが隠したがっていることを知りたがることなのだ」

凄く分かる気がする。

私も自分の中学高校時代を振り返るとマルクスの資本論やジェイムズ・ジョイスのユリシーズなんかを訳も分からず読んでいた。

危険な思想や難解な文学に憧れたからだが、教師から教養のために読めと言われていたら絶対に読む事なんてなかっただろう。

子どもに読書をすすめる上で大変参考になる記述があった。

彼女の母親は小説の世界から遠ざけるべく、教育ものの本や図鑑ばかりを小学生の娘に読ませようとした。

だが、太宰に惚れた女でもあった母親は、ふとしたはずみに画家北斎の浮世絵を娘に見せながら生き生きとその放縦な生き方を語ることがあったという。

「子どもは親の言葉など聞いてはいない。

その顔しか見ていない。

そして親の気持を読みとろうとする。

私の母は本当にうれしそうに、北斎の話をしていたのだった。

それで私も北斎のファンになった。

それどころか、自分の生き方の手本として考えるようにさえなった。」

子どもに読ませたいなら、親が本当にうれしそうに読むところを見せると良いのだ。

そして読ませたい分野があったら、そういう本は読んではいけないよ、危ないからと禁じておくべきなのだ。

[ コメント ]
子供の健全な好奇心がやがてそうした本ばかりを自主的に開くようになる。

知的好奇心とは本質的に天の邪鬼なものなんじゃないか。

そんな気づきを与えてくれる読書案内本であった。

古典のおすすめ本も多数。

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