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できる、できない、の暴力
私たちは何をもってひとのできる、できないを判断しているのだろう
テストで「正解」を書けば「できる」
テストで「正解以外」を書けば「できない」
のだろうか
「できない」のであれば何ができないのだろう
問題の理解?正解の出し方?心の落ち着け方?
「できる」のは何ができるのだろう?
計算の仕方?数学的概念?自信?
テストで「正解」を書けなかった子は本当に理解していなかったから解けなかったのか
その子の中にある能力や知識のある・なしをたったひとつの方法で判断するのはあまりに雑な気がする
スウェーデンでは普段の評価時や全国共通テストで試験の個別適応が認められている
読解の問題を読むのではなく、聞くこともできるし、口頭で答えることもできる
読解の能力がないのじゃないかと言われそうだけど、
それが「できない」というだけで他の能力も「できない」ことにすることは暴力的だと思ってしまう
人前での発表では上手く伝えられなかった子に家で両親の前で発表しているところをビデオに撮ってきてもらう形に変えたら、ちゃんと授業内容が理解できていることがわかったことがあった
それぞれの子の「できる」「できない」を引き出すのは私たちのシゴト
そうやって引き出し方を教えていくことで「できる」自信と「できない」に立ち向かう勇気を持ってもらえるんだと思う
だから自分の「できる」「できない」にも真摯に向き合いたい