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正解探しをやめたとき
SNSを見ていると、情報が溢れていて
何が正解なのかと、そのことにただこだわってしまう。
失敗しないでいたい、あるいは信じられるものを信じたいと思っている。
でも、すぐによそ見してしまう。
手段ばかり増やして、考えられないのは嫌だなと思う。
僕はコーヒーを飲みながら、このことについて考えた。
具体的なモノか、抽象的な概念に正解があるのか。
抽象的な概念の方が可能性が高いかなと思うけど、どうだろう。わからない。
これからの目標を考えるとき、どうしようかなと思うことは誰にでもあると思う。
調子の良いときは「これだ!」とワクワクしながら書いている。
でも、そうじゃないときは、なんだか乗らない、選べてない、終わってると思うこともある。
正解を探しているときはそんな感じだ。
無難なことを選ぼうとして、失敗したくないと感じているときは、マイナスモードに入ることが多いように思える。
自分の外部の視覚や聴覚刺激に夢中になってしまう。
もっと体の感覚に注意を払えば、自分の世界に入れるのに。
マインドレスな状態からマインドフルな状態になるのは、遠受容感覚(視覚・聴覚)が優位になっているのではなくて、体性感覚系(自分の身体がそのまま感じている感覚)が優位になっている状態なのか。
外に向かうのではなく、内に向かうのでもなく、内の感覚に集中する。
自分がいまどう感じているか、判断するわけでもなく感じることに集中する。
なんだったら、自分自身が「感覚」になっている。
困ったときには、なるほど、自分で考えたことではなく、考える自分になること。
感じていると自覚するのではなく、感じになること。
これが不安から解放される「没頭」への入口りなのかもしれない。