【習い事は無駄?】ピアノを10年習った末路
筆者が最近、
最も注力していることは、
音楽の勉強だ。
きっかけは、コロナ禍の最中に、
暇だったので電子ピアノを購入したこと。
幼少期に10年ピアノを頑張ったのに、
最後は嫌になってやめてしまったのが、
心のどこかで引っかかっていたので、
これを機に、学び直したいと思った。
結果、半年足らずで、
ピアノは置物と化した。
クラシックピアノの教本を探し、
幼少期の実力を取り戻すべく練習したのだが、
これが弾けて何になるのかな?
という考えに至り、楽しめなかった。
置物化したピアノは、
そのまま1,2年のあいだ、
ホコリをかぶって鎮座していた。
が、ここ最近になって、
奇跡的に、日の目を浴びることとなる。
それは、懲りない筆者が、
今度は方向性を変えて、
音楽に再挑戦しようと思ったからだ。
というのも、
筆者はピアノはやめてしまったが
音楽は好きで、多い時は
4,5回/年のペースで
ライブ会場に足を運んでいた。
なのに、ピアノは楽しめない。
これはなぜ?と自問自答したところ、
①クラシックのジャンルが好みじゃない
②楽譜をその通り弾くより、自由に弾いて楽しみたい
という2点に気が付いたのだ。
②から発展させて、元SEの能力を活かし、
ボカロ等の作曲にチャレンジしたら楽しそうとも思った。
(作曲には、そこそこのPCスキルが求められる)
ただ、作曲するにあたり、
誰かに習うという選択肢はない。
0歳児(当時)育児中で多忙だし、
筆者の性格上、仕事以外で、
定期的に時間を拘束されるのは煩わしい。
そこで、独学前提で、
Webサイトを検索しまくったり、
書籍を買い漁った。
実際にPCで手を動かし、
耳コピ楽曲の作成にも挑戦した。
その結果…思った以上に、
筆者は音楽を理解していなかったことに
気が付き、頭を抱えてしまった。
正直言うと、
筆者は自分の腕を過信しすぎていた。
幼少期のピアノレッスンは、
いやいや通っていた感が強かったけれど、
スパルタ教育により演奏は結構上手かったし
(と言われていた)
学校の音楽の授業では、
「5」以外の成績を取ったことがない。
だから、ちょっと練習したら勘を取り戻せて、
耳コピも、スラスラは無理でも、
時間をかければできる、と思っていた。
だがしかし、本当にひどい有様だった。
耳コピは、時間をかければメロディーは取れるけど、
ベース音やその他伴奏が、なかなか厳しい。
要は「音感」がないということ。
自分で言ってて悲しいけれど。
ピアノを10年頑張って得たものは、
「楽譜を見て、その通りに指を動かすこと」
これ以上でも、これ以下でもない。
ちょっと調べてみたら、
クラシックとポピュラーとで、
楽譜の捉え方が違うので、
クラシック出身だと、
耳コピやコード奏法に不得手な人は、
音大出身者でも、存在するようだ。
もちろん、クラシック出身者でも、
ジャンルの垣根を超えて、
自由自在に音を操れる人もいて、
そういう人は、筆者のように、ただ指を動かすだけでなく、
音楽を理解しながらピアノと向き合っていたのだろう。
また、才能の問題もあると思う。
諦めが悪い筆者は、撃沈しながらも、
作曲を楽しむ夢を捨ててはいない。
イチから自身を鍛え直すべく、
音感トレーニングをしながら、
並行して音楽理論の勉強をしている。
音大生の方々は、4年間も、
このような勉強を思う存分できるんだ、
と思うと、正直なところ羨ましい。
それと同時に、暇だったパリピ学生時代、
音楽やそれに準ずる趣味に、
もうちょっと打ち込んでおけば、とも思う。
10年間続けた、ピアノの習い事は、
果たして無駄だったのだろうか?
世の中には、
小さい頃にピアノをやりたかった、
と考える人はたくさんいる。
楽譜を見て、両手で弾くことが、
大人からピアノを始めた方には
どうしても難しい、という人もいるようだ。
そういう意味では、
必要最小限の素養を身に着ける、
という意味では無駄ではなかったのかな。
そもそも、音楽の素養が全くないと、
ボカロ曲を作りたい!という発想に
至らなかったかもしれないし。
ただ、10年もかけた割に、
手に入った能力はショボいと感じる。
どうしてショボい能力しか手に入らなかったというと、
習い事に関して、「やらされていた」感覚があり、
いやいや取り組んでいたからだと考えている。
幼少期の筆者に、今と同等の熱量があれば、
おそらく今とは全く異なる世界線が存在しただろう。
「やりたい」が「やらないといけない」に
変わると、途端にやる気が失せていく。
子どもの習い事については、
本人の意思を尊重し、「強制」しないことが、
結果として才能を育むのではないだろうか。
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