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死の恐怖と向き合った話
え、死…?暗っ…病んでる…??
思った方、いらっしゃるかもしれない。
最近、真剣に死について考えすぎて、苦しい日が続いていた。
気になって調べてみたら、「死恐怖症(タナトフォビア)」という不安症状の一つであるらしい。
物心がついた小学生の頃、「死」という概念に初めて触れた時、考えすぎて怖くなってしまったことはないだろうか?それがなぜか、大人になってまたやってきたのだ。
現在は、自分なりに気持ちにケリをつけて、冷静になれているのだが、不安に思っている最中は本当に辛くて、苦しんでいた。
特に寝る前などはずっと考えてしまって、恐怖でなかなか寝付けない夜もあった。
文章にすることで、自分の気持ちを整理すると同時に、同様に苦しんでいる方が参考にできる部分があるといいな、と思っている。
なんだか暗いテーマかもしれないけど、私は今明るい気分で生きているので、よろしければお付き合いください。
★特定の宗教への勧誘や、営利を目的としたものではありません★
まず、不安に思った要因を考えると、大きく分けて3点ある。
1点目に、長引いている、新型コロナウイルスの状況。
通常、安全な国である日本に住んでいると、多くの人は、生死について考える機会が少ないと思う。高齢化社会が到来しているし、生きている確率の方が死ぬ確率よりも、はるかに高い人が多いからだ。しかし、こんなにも長期間、感染者数が何人で、死亡者数が何人で…などと報道が続くと、私のようなつい考えすぎてしまう人間は、生死について考えてしまうのである。
2点目に、親や親戚の衰えを実感したこと。
これもコロナと微妙に関連するのだが、実家に帰るペースがかなり鈍化したため、会うたびに、親が衰えていると感じる幅も広くなるのだ。
幸いにも、病気で入院しているとか、余命宣告されているとか、そういう状況にはないのだが、人はいつか衰え、死んでいくという事実を突きつけられている気分になったのだ。
3点目に、私が現在、時間に余裕のある生活をしていること。
要は暇、ということなのだが、ちょっと前までは時間にも気持ちにも、余裕がなかった。いつも時間があれば、と願う日々だったのだが、生活の効率化に取り組んだ結果、暇になり、このような悩みをもたらしているのだから、皮肉なものだ。
暇だと、つい余計なことを考えてしまう。
1,2点目のような要因があったとしても、私が紛争地域に住んでおり、常に生きるか死ぬかの世界にいたとしたら、どうやったら生き延びれるか、ということしか考えられないだろう。
次に、具体的にどのような不安を感じたのかということと、それらに対する私の考察を記す。
不安に関しても、分類していくと3点ある。
①死んだらどうなるかわからない恐怖
②親しい人や、現世での楽しいことと決別する恐怖
③いつかは地球も滅亡し無になるのに、なんのために生きているんだろうという虚無感
①については、前述した通り、幼い時に怖い、と思ってしまったことがあるのではないだろうか。
そこからは、死んだら天国に行くんだ、と思うのか、輪廻転生的なことを信じるのか、目を背けて生きていくのか、忙しさに忙殺して考えることを忘れるのかは人それぞれだ。
私は、理系出身ということもあり、あまり宗教的なものを信じることができない。そして、だからこそ、恐怖を感じるんだと思う。
信じるものは救われる、という言葉を聞いたことがあるが、本当にその通りだと思う。
死後どうなるかなんて、結局のところ死んでみないとわからない。
だったら、死んだら天国に行けるとか、何か楽しいことが待ってる、という気持ちを持って死ぬ間際まで生きていけるのであれば、その人にとってはそれが真実だと思う。
この問題について、私が気持ちを落ち着けられた考え方は、死んだら生まれる前の状態に戻るのだから、怖くないという考え方だ。
確かに、物心つく前の記憶はないし、気づいたのは幼稚園児くらいで、その時の記憶ですら、曖昧だ。生まれる前の状態は存在していないのだから、死ぬことと同じような状態ではないか?という仮説のもと、生まれる前のことが怖いと思うこともないのだから、怖くないと結論づけた。
ちなみに、ネットを色々とググった結果によると、寝ている状態が永遠に続くわけだから怖くない、という意見もあったが、私はその考えで寝るのが怖くなってしまったので(寝る≒死 という考えに縛られる)この考え方はフィットしなかった。
②については、まず別れたらつらいと思う親しい人がいることや、できなくなる楽しいことがあるということで、自分は幸せなんだなあと思った。
世の中、生きることがつらくて悩んだり、生きることより死ぬことのほうを選んでしまう人だっているのだ。
できればこの幸せがずっと続けばいいけど、そうじゃないから悲しく思う。
対策としては、別れのときに後悔しないように、人間関係をもっと大事にすることを決めた。
私は幼少期から、進学や就職で何回か引っ越しているし、今は転勤帯同生活なので、どうしても一つ一つの人間関係が希薄になりがちで、ドライになっていった経緯がある。
しかし、人間関係から受けられる喜びや学びは無限大であるし、一方で、いつ別れがくるかわからないという儚さもある。それも含めて、覚悟したうえで、一期一会、その時その時の会話を楽しんだり、いい影響を及ぼすことができたらいいなあと思った。
人間関係以外の楽しいことに関しても、同様に、いつできなくなるかはわからないので、出来ることに感謝しつつ日々を過ごしていくつもりだ。
最後に、③について。これが私にとって、一番重いものだった。
スケールが大きい話にはなってしまうのだが、地球は何十億年か経つと、太陽に飲み込まれて滅亡してしまうらしい。
もしかしたら人類はその頃、火星へ移住しているのかもしれないけど、少なくとも地球はなくなってしまうのだ。
例えば、世界をよりよくしたいと思って何かに取り組んだとしても、この世界はいつか滅びる。そうしたら、この取り組みは何の為にやっているのだろう、何のために生きているんだろう、と虚しい気分になってしまったのだ。
私は現在32歳、平均寿命から考えると、まだ折り返してはいないけど、今後何をしていきたいのか、真剣に考えないといけない年齢に差し掛かっている。
この問題についても、色々とググって色々な考えに触れた。
そもそも人生は無意味だし、暇つぶしなのだから、楽しく生きよう!という考えや、目的を求めることが間違っているから、目的や意味なんてなくても、楽しいことをやればいいんだ!など、結局のところ「自分が楽しいことをしよう」という結論に達している人が多い。
これに関しては異論がないが、私の性格上、何かと意味を求めてしまうので、無意味と考えるのがつらいという状況がある。
だから、自分にとって意味がある人生にしたいということ、意味があるとはどういうことか?ということを、追求していくことにした。この「意味がある」の一つに、「自分が楽しいこと」が含まれるが、これだけではない、というイメージだ。
これについてはまだ結論が出ていないが、ゆっくり哲学書を学んだりして、考えていこうと思っている。
ここまでの話で、死恐怖症に悩んでいる人の具体的なアクションに繋がる話はできなかったかもしれないが、なんらかの助けになれば嬉しい。
総括して、ここまで悩んで真剣に考える自分は、生に執着しているんだな、という気づきを得た。つまり、まだ自分の人生でやりたいこととか、ここで死んだらなんらかの未練があるんだと思う。
恐怖が完全になくなったわけではないけど、いくらかラクになったのは、ネットという海を泳いで、悩んできた先人たちが紡いだ文章に触れたおかげなので、私も同様に残しておく。怖いけど、頑張って生きていきましょう。
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当記事を書くにあたり、また、死恐怖症の症状を和らげるにあたり、以下記事に大変救われましたので、掲載させていただきます。
同じように不安な方の気持ちが、少しでも安らぐことを祈っています。