書くという行為について
「熱しやすく冷めやすい」そんな一面が自分にもある。
前回の記事で、今月は小説を書いて応募もしてみたいと記した。
その後、熱しやすい部分がいいように働いたのか小説を三日で書き上げた。
二日ほど推敲も重ね、先日とある新人賞に応募も終えた。
作品の出来不出来は置いておいて、達成感はあった。
はっきり言って熱量だけで書きなぐったものだけど、書き上げるという充実感を味わえた。
書いている時に一番の敵は自分自身だった。もう一人の自分がブレーキをかける。
書くと同時に、最初の読者でもある自分が「これ面白いか?」と問いかけてくる。
書き手の自分は「たしかにな……」と、何度も筆を折りそうになった。
これを乗り越えて書き上げたことが、今回一番の達成感だったと思う。
客観視した自分がブレーキをかける。
この現象は実生活でもあるように思う。
恋愛でも仕事でも。
「自分には不釣り合いだ」とか「今の能力では対応できない」とか。
でも、そう言って尻込みしたものより、ダメ元で挑戦したものの方が後々財産になった。
それは成功とか失敗の結果論ではなく、チャレンジしたという過程に価値があったのだと思う。
そんなことを思えた今回の創作活動だった。
ここnoteに限らず、何かを書いて発信するというのは自分を切り売りにしている感覚が常にある。
そんな大袈裟なものじゃないかも知れないが、それでも自分の経験や考えを基盤にしている以上、自分というものを発信していると思うのだ。
こんな時も、もう一人の自分が現れる。
「誰もお前のことなど興味はない」
「どの分野もお前より詳しい人がいる」
こんな言葉でブレーキをかける。
たしかにな、と思う。それでも読んでもらいたいと投稿を続ける。
『無名』というのはハンディキャップだ。
「知らない人に興味はない」というのも本当のことだろう。
だから知ってもらうために自分を曝け出す。つまり、ふり出しに戻るわけだ。
前人未到のことをやれば、誰もが注目するだろう。
そんな器じゃないことは自分でも分かっている。
ありふれた経験だけれども、自分なりの意見を発信するしかない。それでも投げられた小石は、水面に触れれば波紋を生むはずだ。
もしかしたら私は、そんな小さな波紋が生じれば満足なのかもしれない。
それならば残りの人生、無名のジレンマを抱えながら小石を投げ続けるのも悪くないと思っている。
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