見出し画像

いつか人生を振り返る時が来る

 自分が若かった頃、例えば高校時代の休み時間。
 誰かが冗談を言ったり、何気ない会話で笑い合ったり。教室の窓から差し込む光。好きな子のことを目で追ったり。
 嗚呼、今この瞬間は、きっとかけがえのない時間なんだと思ったりしていた。いつか、この風景を思い出すという予感があった。

 そして今、実際にそんな風景を思い出している。

 仕事の場で出会った人々。
 優しく指導してくれた人、厳しかった人。言い合いになったり対立した人。
「優しかった」とか「厳しかった」とか、一人の人間に対して本来、一言で説明出来るようなラベル貼りは出来なくて、もっと各々が複雑な要素を備え持つ存在なのだが、そんな一言で思い出す人々。
 きっと自分も誰かにラベル貼りをされて思い出されたりするのだろう。どんな一言のラベルを貼られてるのだろうか。そもそも、思い出してもらえる存在ですらないのかも知れない。

 いくつかの恋を思い出す。
 叶わなかった恋。恋人として過ごした人。
 元気にしてるかな、なんてありきたりなことを思う。あの時違う選択をしていたらと、これまたありきたりな事を考えたりもする。相手も同じように自分のことを思い出してくれるのかな、なんて確かめようもない願望も抱えている。

 会わなくなった人、会えなくなった人。
 もう会えない人と死者との違いは何だろうと考える。こちらは思い出すことしか出来なくて、思い出が更新されることはもうない。

 いつか人生を振り返る時が来る。
 そんな予感が小さい頃からあった。
 想像上のそれは、自分は老人になっており病か何かで床に伏している。それまでの人生を振り返り、あんなこともあった、こんなこともあったと思い出す。まぁ、それでも悪くない人生だったと思うのだろう。たぶん、感謝なんかもしてるはずだ。

 今の自分はまだ老人ではない。少なくともそう自認している。この先更に年老いて、想像していたように人生を総括して振り返る時が来るかも知れないし、ある日突然死んでしまうかも知れない。医師から余命宣告を受けていない私は、自分の寿命については本当に分からない。

 だがここまで生きてきて思うのは、僕らは日常的に人生を振り返りながら生きているということだ。ふとした瞬間に思い出す人。あの日の出来事。もらった言葉、言ってしまった言葉。様々な感情や風景が積み重なって今の自分がある。

 美しいことばかりではない。つらかったことや悲しかったことがフラッシュバックして思い出されることもある。
 日常的に思い出される自分の人生が、時に支えになったり、未来への選択を後押ししてくれたりする。

 たぶんこれからも、そんな風に生きていくのだと思う。

いいなと思ったら応援しよう!

バラクーダ
最後まで読んでくださりありがとうございます。サポートいただいたお気持ちは、今後の創作活動の糧にさせていただきます。

この記事が参加している募集