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画狂人北斎・蔦重と浮世のドラマツルギー(前編)〜映画「HOKUSAI」をめぐって
中村萬悠 Banyu Nakamura
1・憂き世と浮世絵
先年、『LIFE誌』で発表・紹介された、「この 1000 年で世界的に偉業を達成した 100 人」に、日本人として唯一選ばれた、江戶の浮世絵師・葛飾北斎(1870 年:宝暦 10 年〜1849 年:嘉永 2 年)。
90 歳という当時としては大変な⻑寿で、最後まで絵筆 を握っていたと言う。生涯に、「北斎」以外、30以上も画号を変え、かつ90ケ所以上も転居した・・・という逸話が残されている。
本稿は、2021年公開の映画『HOKUSAI』にあわせて、北斎・浮世絵の作品世界をとりあげたものの再録である。
もともと「浮世絵」とは、江戶時代、⺠衆が、現在のように“鑑賞する”・・・という高踏的というものではなく、熱狂的に手に触れ、購入し、一種、皮膚感覚に近い、“嗜好品” 的なもので、かってない⺠衆の自然発生的なものであった。 また、本来は“憂き世”を現すもので、そのようなつらい世の中で、⺠衆の楽しみであっ た歌舞伎(芝居絵・役者絵)や美人画(吉原の花魁・茶屋の看板娘)などを素材にした、 通称“悪所”といわれた場所や風俗などを映したものであった。 当然その内容・絵柄には、当時の社会風刺や諧謔が織り込まれ、あわせて華やかな表現、 “雲母摺り(きらずり)”など豪奢な素材や技術が盛り込まれていた。したがって幕府は 江戶時代,約 260 年の間、享保、寛政、天保という三つの大きな「倹約令制度」を発 して、これを取り締まった。
映画『HOKUSAI』は全体で3章だてとなっており、⻘・壮年期の北斎役は柳楽 優弥が。一般的な北斎像を髣髴とさせる老年期は、これ以上適任者はいないのではない かと思われる田中泯が扮し熱演している。
絵師では、他に喜多川歌麿(きたがわ・うたまろ)を玉木宏が、東洲斎写楽(とうしゅうさい・しゃらく)を城桧吏が、“少年”として設定され出 演している。さらに北斎の娘・お栄こと葛飾応為(かつしか・おうい)を女優の河原れんが演じている(彼女 は本作の脚本もてがけている)。
他には最重要人物として、これらの絵師(刷師・彫師 など木版画の技術者)や戯作者をとりまとめている版元の耕書堂・蔦屋重三郎(つたや・じゅうざぶろう)がいる。 現在でいう出版社の社⻑である、役者は、映画・テレビ・舞台と、多くの作品に出演し ている阿部寛が熱演している。 このように、主要な役者はすべてそろっている。
また、遊郭、廓の妖艶な意匠も、いか にも耽美的で、歌麿的世界を横溢している。 このいわばゴーデン・メンバーともいえる絵師たちのうち謎の絵師、写楽の「大首絵」や、 “光と影の絵師”と表現しても評価の残る北斎の娘・応為の作品(『吉原格子先之図』や『夜桜美人図』など)を描く姿などの部分も触れられれば、美術を愛でる映画としては 良かったかと感じる。
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2・美人画・役者絵(風俗画)と浮世絵
ここで少しだけ、江戶時代の浮世絵を説明してみよう。 ざっくり概括すると、全体で3期に区分される。前期は1600年以前から1764年 (名和元年)まで。 桃山時代末期から江戶初期にかけて、上流階級の『花下遊楽図屛風』や遊郭の遊びを描 いた『彦根屛風』『松浦図屏風』などの美人画・風俗画、また京都の町の暮らしや風景を俯瞰して描いた岩佐又兵衛(いわさ・またべい)の『洛中洛外図屛風』(舟木本)などが浮世絵の祖先である。
それがやがて、一人立ちの「美人画」となり、江戶の肉筆画(筆で直接、紙や絹に描く 描法)の元祖と言われ、切手にもなっている、菱川師宣(ひしかわ・もろのぶ)『見返り美人画』(肉筆画)が 登場。彼に端を発っした「美人画」は寛文期にはいると定着。この「美人画」の様式の 流れは、懐月堂安度(かいげつどう あんど)などにひきつがれる。それと相前後して、「歌舞伎」の役者を描く 専門絵師の流派として、鳥居派が誕生。その開祖の鳥居清信(とりい・きよのぶ)の代表作として、”荒事“の 役者である市川団十郎を、通称「瓢箪足、蚯蚓描き」(ひょうたんあし・みみずがき) という表現で描いた豪胆な作品がある。
この時代は、同時に多数作品ができる「木版画」、 絵師・彫師・摺師、三者の共同で製作していく、いわゆる一般的な「浮世絵」という、 もう一つの種類が確立する。色彩的には、墨一色か朱をいれた「丹絵」や「紅摺絵」と いった単色の色彩ものであった。
江戶中期:1765年(明和2年)〜1800年(寛政年間) この時期、「浮世絵」は⻩金時代を迎える。現代でいうところのカラー4色刷りである「錦絵」(木版多色摺り版画)の大成者、鈴木春信(すずき・はるのぶ)が登場。『古今和歌集』などの古典や 中国の景勝地を描いた「蕭蕭八景」を、いわゆる“見立て”という手法で人気を博した。 少女とも少年との区別があいまいで、独自のコケティッシュな魅力の美人画をえがいた磯田湖龍斎(いそだ・こりゅうさい)、一筆斎文調(いっぴつさい・ぶんちょう)などが一派をなした。また美人肉筆画の一翼を築いた ものの、悲劇にみまわれた絵師・宮川⻑春の跡を継いだ形となったのが、美人画や役者 絵を能くした勝川派の勝川春章(かつかわ・しゅんしょう)である。
この勝川派に安永7年(1778年)、19歳で弟子入りしたのが、生涯30以上も画号を変えたという若き「北斎」で、その際には師匠の一文字を頂き勝川春朗(かつかわ・しゅんろう)と名のった。
さて、続く天明の時期、「役者絵」の鳥居派でありながら、江戶の市井にいる女性をモ デルに、いわゆる“八頭身美人”としてデフォルメし、一世を風靡した鳥居清⻑(とりい・きよなが)、鳥居派四世で版元は⻄村永寿堂から出た。その清楚な立ち姿の描法に、人気が高まった。
3・蔦屋重三郎と、歌麿・写楽・北斎
「浮世絵」はジャンルとしては、悪所といわれた歌舞伎の「芝居絵」や、 その人気の役者を描いた「役者絵」、遊郭・廓の花魁や太夫、茶屋の看板娘などを描いた「美人画」であった。
それが後に輸出品の包み紙として再利用されていた浮世絵が 偶然、海外で広まり、フランスの美術評論家ゴンクールによって『歌麿』という題名で 本を上梓される。その果、”美人画の最高峰“という意味での「女絵の名人此右にでる 者なし」といわれ、海外でも”UTAMARO”と賛えられたのが喜多川歌麿である。
歌麿が本格的な人気絵師となったのは、江戶の有力版元(出版社・編集プロデューサー)、 耕書堂主人であった蔦屋重三郎との邂逅である。映画では二人は遊郭吉原で連んでおり、 いつも歌麿が花魁などを描く便宜をはかっているように描かれている。こうして、二人 三脚的に創作されたのが、いわゆる“天明美人画”といわれる『婦女人相十品』『歌撰恋 之部』といった大首絵、雲母摺りの作品であった。 しかし当初、耕書堂から歌麿の作品が世に出たのは天明八年(歌麿の前画号)北川豊章(きたがわ・とよあき)の落款で『虫本虫撰』(えほんむしえらみ)という昆虫をモチーフにした、一種の「図 鑑」(絵本狂歌本)であった。 因みに、この本の第一首「蜂」を詠んだのは狂歌名・尻焼猿人。大名絵師・酒井抱一で ある。いうまでもなく、琳派の絵師として有名である。
その後、歌麿自身は「役者絵」に興味はありながらも、「老若男女贔屓の役者を画いて 名をひろめる者は拙き業」と嘯き、「役者絵」を描く者たちに、ことのほか揶揄すると いうポーズをとる。それは映画の中で、歌麿が北斎にとる態度にあらわれている。
北斎が蔦屋と出会った際には、すでに勝川派を破門になっており、叢春朗(くさむら・しゅんろう)と名のっていた。
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そして映画でも謎の絵師・写楽が登場する。役者絵、相撲絵、武者絵など145枚程の 作品を、すべて蔦屋の耕書堂から出版した。それも最初から独自の黑の雲母摺り、大首 絵で出すという画期的な構成でのデビューであった。
東洲斎写楽は、寛政6年『花菖蒲 文禄曽我』(大判・雲母摺り)に始まり、当時、“怪童”といわれた力士・大童山を描いた 「相撲絵」(大判・間版)までの、わずか10ケ月で姿を消した。
これは、同時期に役者絵を描いた勝川春英、春好などの春朗の兄弟子たちや、その後、 江戶後期に最大の流派となった新興勢力である歌川派の始祖 歌川豊国などの絵と一 線を画すほど素晴らしく、現代でいう“肖像画”の先駆けともいえるものであった。 これらの写楽の絵の特徴を、“あまりに真をえがかんとして一両年にて止む”と記載し、 浮世絵界のいわば人名録としてまとめたのが、上記の、天明狂歌の世話役ともいえる蜀山人(しょくさんじん)こと、大 田南畝(おおた・なんぽ)が著した『浮世絵類考』を原簿とし、後に増補を重ねたものであった。 本映画で驚くべき事は、この謎の絵師写楽を蔦重が知人から紹介された“少年”と設定し 展開している点である。この発想は斬新と言わざるえない。
江戶後期:1801年(享和元年)〜1867年(慶応3年) そしてこの時期に、“本格的”に「葛飾北斎」が登場する。北斎は宝暦10年(1760 年)葛飾郡本所に生まれている。先述したが、本映画では丁度、勝川派を破門された時 期にあたっている。画号も勝川春朗から俵屋宗理(たわらや・そうり)と名のっていた20〜30歳 台、北斎となる前の時期である。
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「北斎」という画号を使用するのは、寛政11年(1799年)40歳の時である。 『凱風快晴』や『神奈川浪沖裏』などのいわゆる北斎の代表作「富嶽三十六景」シリー ズを創作した時期は、実は70歳台で「為一(いいつ)」と名のっていた。 その生涯は、役者絵、美人画、武者絵、名所図、摺本、読本、艶本・・・そして、いわ ゆる『北斎漫画』等々を描いた、他の浮世絵師の試みをすべて自身一人でためし、名作 とした。まさに巨人的な存在であった・・・。
またこの時期、もう一人の絵師で「名所絵」、すなわち「風景画」を完成させたのが、 歌川広重(うたがわ・ひろしげ)である。代表作は、いうまでもなく『東海道五十三次』。 一方、美人画は江戶末期には、いわゆるデカダンスの時代となる。絵師には菊川英山(きくかわ・えいさん)、 渓斎英泉(けいさい・えいせん)らの艶やかで退廃的な容貌・姿形の女性像であった・・・。 こうして風刺画、諧謔画など、歌川派の国芳(くによし)、国貞(くにさだ)、さらには芳年(ほうねん)がクローズアップさ れた。そして、明治まで活躍した河鍋暁斎(かわなべ・ぎょうさい)へと引継がれ、⻄洋文化流入後、近代浮世絵 師ともいえる小林清親(こばやし・きよちか)などが登場。その新時代の社会を、幻想的にとらえた「光線画」 が登場する。
(…後編につづく)
※2021年執筆・再録
◉著者: 中村萬悠 (なかむら・ばんゆう)
◉美術史家・キュレーター、美術展・展覧会プロデューサー。中村祐之・名義で美術展企画提案、キュレーション・展示構成、芸術・文化の歴史調査や国家間周年事業、博覧会のテーマ・コンセプト、パビリオンなど40年以上に渡り手がける。
◉『手塚治虫展』(東京国立近代美術館・1990年) や、石ノ森章太郎、里中満智子らが呼びかけた『第一回東アジアMANGAサミット』(1996年)を立ち上げるなど、漫画・サブカルチャーを初めてファイン・アートとして公共の美術館で開催した。他にも『広島アニメ・ビエンナーレ』(2004年)総合プロデューサー、『星の王子さま展』『くまのプーさん展』など。
これまで『利休・千家十職展』『琳派―光悦・宗達・光琳―』『大英博物館展』『北京故宮博物院展』『シルクロード展』『トロイアの発掘秘宝―アガムメノンの黄金仮面―』『印象派展』『ピカソ展』『ミロ展』『ダリ展』『キース・ヘリング大回顧展』など多数。
◉1951年東京生まれ。早稲田大学卒業後、美術専門出版社で書籍・編集、雑誌編集長、出版担当役員を経て現在、株式会社SOZOBUNKA. bis代表取締。
◉著書に『写楽を探せ・謎の天才絵師の正体』平成一九・名義(湘泳社・1995年刊)、『美のエクリチュール』中村祐之・名義(造形社・1985年刊)。『決定版・星の王子様の大宇宙』椚山義次・中村萬悠/共著(オクターブ・2022年)。日中友好記念オペラ『天人』(総合プロデューサー・原作)など。