ASOBIJOSの珍道中④:アソビジョーズ、遊びすぎーる。
さて、2月の下旬、モントリオールに到着したばかり。生活を始めるにあたって、まずは家と仕事を探さなければなりません。しかし、そんなもん、なんとかなるやろ、とジャズバーに出かけるのが、愚か者夫婦の私たち、ASOBIJOS(アソビジョーズ)でございます。
モントリオールは夏に大きなジャズフェスティバルが開催されるほど、ジャズが盛んな土地で、毎日ジャズのライブがあるバーも何軒かあります。そのうちの一軒、『Diese Onze』というお店へ出かけました。この日は、『Alex Bellegarde Jazz Latin Quintet』 というグループのライブがあり、入場料はわずか12ドル(約1200円)でした。
プラトー・モンロイヤルと呼ばれる、カラフルなマカロンが積み上げられてできたようなレンガの建物が立ち並ぶエリアを歩いて、半地下に下りてお店に入り、ステージすぐ近くのカウンターの席に着くや、フランボワーズフレイバーのクラフトビールとシトラスミントフレイバーのクラフトビールを注文し、薄暗いカウンターに飛び交う間接照明の光に、バラ色とタンポポ色にしゅわしゅわと輝くビアグラスを重ね、乾杯。”まあ、こんくらいのお店なら松山にも腐るほどあるけどな”などと、恥も知らずに伊予弁でべらべらとしゃべりちらかし、”フランボワーズってなんやったっけ?””フランスの花やろ、ピンクのバラみたいなん”と、しっかりど田舎おのぼり観光客丸出しでございました。
さてさて、ライブ開始予定の20時になりましたが、ようやくそれくらいにベースやコンガを持ったミュージシャンがパラパラと集まりだして、もったもったとチューニングを始める、といった具合で、中南米の世界に誇るべき美徳、”Tranquilo(トランキーロ=焦り知らず)”を嗜み、またよく味も香りも分からぬビールをもう一杯、ついでに名前も聴いたこともないカクテルも、と、すっかり私たちの顔もバラ色に染まり上がった頃合いになって、ようやくパーカッショニストの両手がコンガの上を跳ね出し、ベーシストがその上に躍動的な音の波を重ね、まるで会場全体に巨大なテーブルクロスを敷くようにして、そのまま陽気な客を一人残さず乗せて、ふわりと、どこか遠くの穏やかで暖かい海の上に浮かべてしまうのでした。
圧巻だったのはそのバンドのピアニストでした。チリチリの巻き毛がとっ散らかった髪の毛に、手足の長い細身の黒人で、その大きな両手でガシガシとピアノに齧りついているかのように叩きまくるのです。しかも、彼が最も遅れてステージに現れたのにも関わらず、悪びれるそぶりもなく、大したウォームアップもなしに、飽きるほど昼寝して、たった今起きた赤ちゃんのような幸福な瞳をメンバーに見せて、ライブを始めてしまうのでした。恐らくキューバ人でしょう。ベーシストが2、3フレーズを刻んだらもう、どの曲だかわかってしまって、曲の節を口ずさんでしまうくらい、歌が身体に染みついているのです。そのまま、ウラ〜!っと歌いながら、鍵盤をバシバシと叩き、時にはあの、ラテンアメリカの豊満なパパイヤの果肉をわし掴みにするかのごとく、激しく、優しく、時に情熱を込めて乱暴に、コードをガシガシ、ガン、コン、チャン、と奏で、両足はやはり軽快に踊るようにリズミカルに跳ねさせ、時にはそのまま勢いあまって、ピアノソロの途中だと言うのに立ち上がって、ピアノに背を向けて踊り出し、観客に向かって、その2メートルほどもある巨大な図体を振り散らかして、見ているこちらも照れてしまうほど惜しみない全開の笑顔で、両手を叩いて、観客の女性をステージに引っ張って一緒に踊り、腰をくねらせながら叫んで歌いまくるのでした。しかも、びっくりするほど音痴な音程だというのに、お構いなしで、高らかに!
また別の日にはモントリオールの中心地・プラサ・デザールにある大きなコンサートホールに足を運び、コンテンポラリーダンスの巨匠ピナ・バウシュが長年監督した『ヴッパタール舞踊団』の『パレルモ、パレルモ』という作品の公演を観にいきました。ベルリンの壁を題材にした舞踊とも演劇ともとれる作品であるそれは、幕開けから衝撃的でした。ブザーが鳴り、会場全体が暗くなって幕が上がりましたが、ステージ上も真っ暗闇の静寂。満員の観客は、必死に目を凝らしてその舞台上を見ようとしました、が、その瞬間、実は舞台上に巨大なブロックが10メートルほど高く積み上げられており、それが轟音を立てて崩れ落ちるという、とんでもない演出で始まるのでした。
慣れない革靴を履いて、ジャケットに袖を通し、ふかふかの座席の上で背伸びをしてその開幕を見ていた私は、思わず、ビクッ!と縮み上がってしまいましたが、そんなことよりも、このビクッ!という驚愕のふるえがこの高貴なホールを満員にした観客全員、一人残らず同時に駆け抜けたことが、何よりもの驚きでした。
こんな仕掛けで始まった『ヴッパタール舞踊団』の演劇でしたが、もう訳のわからないダンサーたちのあり得ない演出の数々のオンパレードでした。舞台上でタバコに火がつけられたり、爆竹が鳴ったり、ダンサーが何かを叫びながら全力疾走して、そのまま壁を駆け上がって、ぐるりと一周して着地し、それを止むことなく何度も何度も繰り返したり、犬が一人でにちょろちょろと歩いてきて、食べ物をあさって、また幕の向こうに歩いていったり、狂気じみたダンサーたちの激しい動きが奇妙にそろったり、散ったりし、粉雪に紙吹雪に、巨大な木そのものも天井から降ってきたり、もう、舞台の規制なんぞ、どこにあるのやら、、、、。途中、舞台上が激しい踊りや演技に溢れかえるなか、白いブリーフ一枚でネクタイを締めた姿の男が”Break(休憩)”と書かれたプラカードを持って、優雅にスタスタとステージの前面を歩き始めましたが、もはや、それも演出なのか、本当に休憩なのか、観客も訳がわからず、立ち上がっていいのか、やっぱり座って見ていないと、とキョロキョロとたじろぐ状況が広がり、観客の多くのお上品なスカーフやキラキラの腕時計を身にまとって白髪をハゲ散らかした老夫婦たちは、心臓発作で死にかけているか、もはや、ボケも過ぎて、いつの間にあの世に来てしまっていたんだね、うん、と、納得して、穏やかに手を握り締めて見つめ合っているような有様でした。ベルリンの壁の崩壊後の混乱を表しているのがステージの方なのか、こちらの観客席の方なのかもよくわからなくなってしまいましたが、いやしかし、ステージと観客席、向こうの国とこちら国の境界線なんて、そもそもなんなの、あるの、いや、元からなかったでしょう、でもあるよね、今も?え、さぁ、、、。
そんなこんなで、いよいよ、もともと少なかった貯金の底が早くも見え始めた私たち。愚かにも家も仕事も全然見つかりません。まず、家に関しては、いろんなウェブサイトなどで出ている広告に連絡を取ってもまず返事はないのがほとんどで、あったとしても、英語しか話せない私たちですし、日本人は台所で何をするかわかったもんじゃありませんし、ましてやカップルとなると、どこを魚臭くされるかたまったもんじゃないぞと、怪しまれるばかり。保証人、推薦人を立てろと言われたって、知り合いなんて誰一人いませんし、仕事だって、英語とフランス語の二つが話せることがまず前提条件で、いくら日本で小さな出版賞をもらったって言おうが、ブラジルで新聞記者をやったって言おうと、書けるのはこのベタベタした日本語で、誰も読めやしませんし、大学名だって、誰も知ったもんじゃありません。
いよいよ、やばいな。結婚一周年にして、早くも金の切れ目はなんとやらか、、、とため息をつきながら、暗い雪の中を歩いていた、その時でした。背後から、ガサゴソと、奇妙な足音が追いかけてくるのでした。