【小説】透明の家 《第五話 後編》
それから一週間後、深海さんから電話がかかってきた。
「お相手様より、話し合いの許可をいただきました」
思わず休憩所で一人ガッツポーズを取る。
「お日取りについてですが、今週の日曜日はいかがでしょうか」
「はい、大丈夫です!ありがとうございます!」
「今回は入居前ですので、お二方の名前をはじめ、身分や年齢などはお伝えできません。もし今回ご縁がなかった場合、その後お相手様のご迷惑になるような接触はお控えください。その際のトラブルについては私どもは一切関与できませんので、ご了承ください」
「わかりました」
「では、当日をお待ちしております」
要点だけをまとめた電話だったが、俺にとっては紛れもない吉報だった。まだ相手の顔も知らないが、今まで見えなかった入居への扉がやっと少しだけ開いた気がしたからだ。
「おっ!ご機嫌じゃないか。北園もついに女ができたか?!」
浮き足立っていることが顔に出てしまっていたのか、通りすがりの部長に声をかけられた。
「独身のうちは女をめいっぱい抱いておけよ!仕事の成果も、プライペートの質も、抱いた女の数で決まるからなぁ!女と付き合えない奴は、雄として負けている!そんな軟弱者、うちにはいないよなぁ!」
ガッハッハと大口を開いて笑っている部長に、そこ知れぬ嫌悪感と怒りが湧いてくる。その薄汚れた歯を全部引き抜き、神経を抉り出してやりたい。
そんな憎悪に限りなく近い感情を抱きながらも笑顔を浮かべた。
「ご教示いただき、ありがとうございます」
あまりにも極論すぎて反吐が出そうになる。
しかし結婚してしまえば、こんな品のない会話ともおさらばだ。
そう思うと自然な笑みを作ることができた。
早く相手に会って話がしたい。
恋愛感情とはまた違った期待感に胸を膨らませながら、いつもよりも軽い足取りで自分のデスクへと戻った。
*
「本日はお忙しいところお時間を頂戴いたしまして、誠にありがとうございます」
ビジネスマナーの講師のような見事な発音と所作で、深海さんが頭を下げた。
反射的に頭を下げた俺が顔を上げると、目の前に座っている女性が同時に頭を上げる。
「……」
若い。そして派手だ。
長く伸ばした銀色の髪は毛先だけくるくるとカールしている。耳には大きな輪っかのようなピアス。つけ爪なのだろうか、異様に伸びた爪にはキラキラとした宝石が輝いている。瞬きをするだけでバサバサと音が聞こえそうな睫毛と、日本人離れした瞳の色。真っ赤な口紅が目を引く、濃いメイク。スポーティーというのかパンキッシュというのか、俺には理解できない派手な服装。そして俺が履いたら足首を捻りそうなほど高い厚底靴。
一言で言ってしまえば、ギャルだ。
俺の人生で深く関わった事のないタイプの人種だ。
「今回は入居前でございますので、お互いの本名や情報は伏せさせていただきます。お互いを呼ぶ際には、男性を『ハル』様、女性を『ナツ』様とお呼びください」
春と夏。なんとなくお互いのイメージに合っている気がする。深海さんの感性に触れたような気がして、少し緊張の糸が緩んだ。
「まず、状況を説明させていただきます。お二人は現在、こちらの施設への入居をご希望です。ただし、私どもの方で検討したところ、お二人をパートナーとして組ませることは難しいのではないかという結論に至りました。
しかしながら、お二人は今すぐの入居をご希望されています。
この場を設けることによって、お互いの意見を交換しあい、互いに歩み寄っていただければと考えております。
もしも今回、ご縁がなかった場合は、相性の良いパートナー候補者様がいらっしゃるまで、入居は延期させていただきます。ご了承くださいませ」
一通りの説明を終えると、深海さんは再び深々とお辞儀をした。
俺は目線を下ろし、目の前に座る女子に向ける。丸く大きく見開かれた目が、俺のことをじっと見据えていた。
「お相手様については事前にお話ししたとおりです。私はあちらのカウンターにおりますので、どうぞ気兼ねなく意見交換をなさってください。ただし、お互いを尊重しあうことをお忘れなく」
深海さんは俺たちの目の前に温かい湯気の立ちのぼる珈琲と、包装されたクッキーを並べて、「失礼いたします」と断り、カウンターへと戻っていった。
「……えっと」
広いロビーに俺の声だけが響いている。なんとも不思議な緊張感だ。
「はじめまして」
「……はじめまして」
不信感を隠そうともしない声色で、目の前の女子……『ナツ』さんが答える。
それはそうだろう。年齢の離れている見ず知らずの男と、初めて会話するんだ。警戒心を持つことは女性として当然だろう。
こんな派手な外見をしていてもきちんと女性としての心構えがあることに、俺は謎の感動を覚えた。
「深海さんからお話は伺っています。今日はお時間をいただき、ありがとうございます」
「……いえ」
まだ筋肉の強張りが消えない彼女に、なるべく柔らかい声で話しかける。どうやら、仲良くなるにはまだ時間がかかりそうだ。
「ナツさんもこちらに入居希望なんですよね。俺たち、仲間ですね」
「……」
彼女はコーヒーカップの水面を眺めたまま、動かなかった。
どうしよう。会話が広がらない。
これは俺との相性が悪いのではなく、『男』との相性が悪いのではないだろうか。そんな考えが頭をよぎった。しかし時間はまだ、たっぷりある。
焦らずゆっくりと相手に……。
「……ハルさんは」
取り繕った笑顔を浮かべてへばりついた喉を珈琲で潤していると、彼女がポツリと言葉をこぼした。
「あ、はい!」
「……恋愛至上主義者なんですか」
隙間なくびっしりと並んだ睫毛が上下に動いた。人工的に描かれた虹彩が、ギョロっとこちらを見据える。
「……恋愛至上主義?」
「人生において恋愛が一番尊いものだと考えてる人」
「あ、うん。言葉の意味はわかるよ」
思わずタメ口になってしまった。
挨拶の次が、これか。あまりにも性急すぎる話題転換に、『拒絶』という言葉が頭にちらつく。
「そうだね、確かに俺は『恋』や『愛』という感情は素晴らしいものだとは思っているけど、恋愛至上主義かと問われると自信ないなぁ。だって、大抵の人は恋愛を素晴らしいものだって思ってるだろう?だから俺もそのレベルだと……」
「私は思わないよ」
まるで目の前に刀を振り落とされたような気分だった。
ワンテンポ遅れて背中にじわりと汗が滲んでくる。
彼女は長い爪の指を器用に使って、クッキーの袋を開けながら続けた。
「恋なんて、綺麗事で包装したただの性欲じゃん」
ビリッと袋が裂かれる音がロビーに響く。
彼女がクッキーをボリボリと咀嚼する音だけが、辛うじて静寂を阻止していた。
ああ、本当に相性が悪いのか。話し始めてまだ三分も経っていなというのに、こんな取りつく島もない状況に陥るだなんて。
俺は何も考えずに勢いだけで反論したいという欲求をぐっと抑えて、できるだけ冷静に会話を続けた。
「ナツさんは、どうして恋愛が苦手なの?」
「それって、どうして恋愛が下手かって聞きたいの?それとも、どうして恋愛が嫌いかって聞きたいの?」
「……後者の意味で」
だんだんと空気がピリついていくのを肌で感じた。
話せば話すほど、空気中の酸素量が減り、得体の知れない何がもったりと肺に溜まっていく。
「さっきも言ったように、恋なんて性欲を都合よく言い換えただけのものだから」
「いや、確かに恋とそういう欲求を履き違えている人は沢山いるよ?でも恋心っていうのは本来、もっとこう……キラキラしていて、清らかで美しいもので……」
「……ハルさん、少女漫画とか好き?」
「……なんで?」
「いや……」
ハンッと鼻で笑われた。どう見ても馬鹿にされている。
「フィクションのきれいな物語しか見てこなかったのかなって思って」
「……そんなことないよ。ちゃんとそれなりにリアルな恋愛もしてきたし」
「『ちゃんと』ねぇ……」
頭のてっぺんから膝辺りを、彼女の視線が往復している。
「君のほうこそ、ちゃんと恋愛してこなかったんだろう?だったら本物の『恋』や『愛』がどんなものなのか分かっていないんじゃないか?」
売り言葉に買い言葉、とはよく言ったものだ。
不意に口から飛び出した言葉が、相手を一番傷つけるものだったのではないかと気づいた時には、もう遅かった。
「……」
彼女は上半身を前に倒して、長い髪で顔を覆ったまま俯いてしまった。
俺はうろたえた。
下手をしたら一回り以上年下かもしれない目の前の若者を、無遠慮に傷つけてしまったのだ。あまりにも大人気ない所業だ。自責の念で顔が熱くなる。
「あ……、ご、ごめ……」
「……」
「今のは完全に俺が悪かった……。本当にごめ……」
「っく……ふ……」
小刻みに震える肩越しに嗚咽が聞こえる。
これはますますまずい状況になったと、深海さんに助けを求めようとした、その時だった。
「んふっ……ふふ……」
顔を覆っている彼女の手の隙間から、くぐもった笑い声が漏れ聞こえた。彼女はその体勢のまま指を広げて、その隙間から目だけをこちらに向けた。
「……ハルさんの言ってる『愛』ってさ、恋愛感情に関する『愛』だけなんだ。……寂しいね」
カシャンッ。
目の前に置かれたコーヒーカップがいつの間にか倒れていた。床にこぼれ落ちる珈琲の飛沫が足首に跳ね、自分が知らぬ間に立ち上がっていたことに気づいた。
「ハル様、お怪我はありませんか?」
いつの間にか側に来ていた深海さんがタオルを差し出しす。動転している頭ではすぐに返事をすることはできず、ただ僅かに口を動かしながら小さく頷くことしかできなかった。
「……本日はこのへんでお開きにいたしましょうか」
深海さんは素早くテーブルの上と床を片付けながら、至極建設的な提案をしてくれた。
「はぁ~い」
悪びれた様子もなく、彼女はぐんっと上に背伸びをしながら返事をした。もしかしたら彼女はわざと不和を起こして、今回の縁談を反故にしようとしているのかもしれない。ならば俺がこれ以上話しかけても無駄だろう。お互いに時間と精神をすり減らすだけだ。
これでまた入居までの時間が延びてしまった。しかし、偽装とはいえ、ここまで相性の悪い人とパートナーになるのは確かに不安だ。どれだけお互いに不干渉だとしても、いつか必ず衝突してしまうだろう。俺は深海さんの賢明な判断に心から感謝した。
その後、俺たちは形だけのお辞儀をして、時間をずらしてそれぞれの帰路についた。
「お時間を頂戴しましたのに、このような結果になり、誠に申し訳ございません」
「いえ、もとはといえば俺が諦め悪く食い下がったせいですし……。こちらこそ、無理言ってすみませんでした」
「……私の読みが甘かったようです」
深海さんは目を伏せたまま呟いた。
「お時間をいただくことになるとおもいますが、また調整がつきましたらご連絡させていただきます」
「はい。どうぞよろしくお願いします」
見惚れるようにきれいなお辞儀をして送り出された。外に出た途端、北風が真向かいから吹き付ける。
「……はぁ」
俺は失望とも安堵ともとれるため息を吐きながら、曇天の歩道をとぼとぼとした足取りでひとり帰った。
*
「よぉ~!北園!振られたんだって?」
さあ、これから帰ろうというタイミングで、神経を逆撫するような声がぐわんぐわんと鼓膜に響いた。
「無理やり迫って拒否されたって聞いたぞ!イケメンもやっぱりただのオトコだったか~!」
いったいどこからそんな噂が流れたのか。一概に的外れでもないので逆に厄介だ。閉じかかっていた心の傷がジクジクと痛みだす。
「そんな可哀想な北園ちゃんを、いいところに連れて行ってあげようか?」
同僚は無遠慮に俺の肩に腕をかけて、ニヤニヤと耳元で囁いた。
嫌悪感が背中を駆け上がる。
「どうせ風俗だろ……」
「ご名答~♪」
こいつの頭にはそれしかないのか。俺は呆れながら、鬱陶しく絡む腕を肩からどかした。
「女の傷は女で治す!だろ?」
「発想が単純すぎる」
「悪かったな、単純で!それとも何か?ショックすぎて『不能』になっちまったかァ~?」
『不能』。
その二文字が、俺の全身の毛穴を開かせた。
迫り上がる胃酸を堰き止めようと、咄嗟に口元を抑える。
無意識のうちに指先に力が入ってしまい、頬の肉に指が食い込んだ。
「えっと……。気にするな!もしあれなら病院に付き合うからな!なっ!」
いつもは鈍感な同僚も、さすがに地雷を踏み抜いてしまったと悟ったのか、潮が引くかの如くサァッとその場から退散した。一人残された俺はその場の壁に頭を預けてもたれかかった。
『不能』。
男として失格。情けない。女々しい。雄として終わってる。
過去に上司や同僚たちとの会話の中で出てきた言葉が、俺の後頭部あたりで泡のように湧き上がってきては弾けていく。
「俺は……」
その先の言葉は出てこなかった。
いつもヘラヘラしているあの同僚に同情されなくてはいけないほど、俺は哀れなのか。
今まで、なんでもそつなくこなしてきた。
なのに、その一点だけがどうしても埋められない。
俺は完璧になれない。
「……帰ろう」
このままここにいたら、ヘドロのような感情で気管が詰まりそうだった。俺は自らの行動を促すためにわざと声に出して呟き、ゆっくりと前に足を進める。絶望感が靴の裏にニチャリとへばり付き、自分の足だとは思ないほど重く感じた。
夜の街を歩く。
すでに閑散としているビジネス街を抜け、駅を通り越し、歓楽街に向かった。どぎつい原色のネオンが放つ強烈な光に、俺の視神経が悲鳴をあげる。ギャアギャアと騒ぐ酔っぱらいの喧騒。こういう場所でしか嗅いだことのない独特な異臭。この時間帯に似つかわしくない、幼さが抜けきっていない若者たちの楽しげな笑い声。
どれも自分が距離をとってきたものばかりだ。
彼らを羨ましいと思う日が来るなんて、夢にも思っていなかった。
あんな風になれれば、こんな思いに苛まれずにすむのだろうか。
いや、それができたらとっくにしている。俺はあそこにはいけない。
ごみだらけの地面を、ただぼんやりと見つめる。しばらくすると、端に置かれたゴミ用のポリバケツから、カツン、カツンと小さな音が鳴り始めた。
空を仰ぎ見る。
雨だ。
雨粒は徐々に大きくなり、無視できないくらい激しさを増していった。
慌てて近くの居酒屋の軒先に飛び込み、体についた雨粒を手で払った。
撥水加工のコートはさほど濡れてはいなかったが、髪と顔がぐちゃぐちゃになってしまった。
「……ついてない」
斜めに吹き荒ぶ雨粒が軒先の中にまで侵入し、スーツの裾を容赦なく濡らしていく。ギリギリまで押しやられ、店の壁に背をぶつけた。振り向いて見てみると、店内には大漁旗や浮きがそこかしこに飾られている。どうやら海鮮系の居酒屋のようだ。暖かそうな黄色い光と、店内のあちこちで上がっている湯気や煙に、思わず目が奪われる。
そういえばまだ夕飯をとっていなかったな。
安心したせいなのか急に空腹を感じた俺は、気付けば店の入り口に手を伸ばしていた。その時。
「……あ」
白い女性の手が、俺の手に重なる寸前で止まった。
どうやら同時に手を出してしまったようだ。
先を譲ろうと顔を上げかけた時、その指の先についている爪に目がいった。見覚えのある模様と石だった。
そのまま腕をなぞるようにして目線をあげていく。
「……あ」
ナツさんだった。
相変わらずバサバサの睫毛に囲まれた不思議な虹彩の目をまん丸にしながら、まるで化物でも見たかのような表情をしていた。
それもそうだ。
俺だってこんなところで出会うなんて思いもしなかった。
「……」
「……」
お互いに言葉は出なかった。
挨拶をするにしても、その後にどう会話を続ければいいのか皆目見当がつかない。なんともいえない空気のまま、時間だけが過ぎていく。
「あの~……」
いつの間にか若い店員が入り口からひょっこり顔を出していた。
「よろしければ、寄って行きませんか?こんな雨だし」
陽気な店員は空気を読む気などさらさらないといった様子で、無邪気に話しかける。
「雨宿りついでに、ねっ?ねっ!あ、タオルもお貸ししますよ!はいっ!二名様、ご来店~!」
「いらっしゃいませ~!」
フロア中から店員たちの声が響いた。
俺と彼女は答える間も無く、半ば強引に背中を押されながら、店の奥まで案内されてしまった。
本当に、ついていない。
喉元まで出かかった台詞と溜息を辛うじて飲み込み、俺は賑やかな店内を重い足取りで移動した。
(続)
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