お金と胃袋
お金が欲しいんじゃない。安心が欲しいんだ。
どうして働くのか。お金が欲しいからだ。なぜお金が欲しいのか。生活するためだ。
資本主義が世界の中心となっている現代では、生活するためには最低限のキャッシュが必要だ。
最低限のキャッシュは、生活する国によっても違うし、求めるレベルによっても変わってくる。
衣食住を賄えるだけのお金を稼いだなら、次は余暇や嗜好品にお金を使うことになる。
余暇や嗜好品での贅沢を味わって、気持ちを満たした後に残るお金こそが、「安心」という言葉にすり替えられて、銀行の預金残高を増やしていく。
別に、だから貯金をしないで投資をした方がいいとか、必要以上に稼ぐ意味はないとか、そういうことを言いたいわけではなくて。
お金って不思議だなっていう話
例えば、貯金が1000万円あるとして、その使い道を1円単位まで計算している人は、多分いないと思う。
それなのに、みんな蓄えを増やそうと躍起になっている。もちろん僕も。多ければ多いほどいいんだ。という感じで。
なんだか、食べ放題みたいだなと思った。一度に食べられる量は決まっているのに、「いくらでも食べていいですよ」と言われると、なんだかすごく安心する。
その結果、もうすでに満腹なのに、食べ物を口に運んでしまう。
僕らの胃袋には制限があるけれど、銀行の通帳には制限がない。記帳できなくなったら、銀行が新しいものを発行してくれる。
通帳は胃袋と違って、貯め過ぎても消化不良を起こすことはない。肥満になったり、病気になることもない。
世界は広くて、「モノ」で溢れてるから、お金がいくらあったとしても、使い切るのはたやすいかもしれない。
だけれど、その使い道は、本当に必要なものなのか。SNSから際限なく流れてくる加工された「キラキラ」は、無意識のうちに購買意欲を掻き立てて、感覚を麻痺させていく。
1日に食べられる量が大体決まっているように、一生に使えるお金の上限が決まっていればいいのに、と思う。
そうすれば、より必要なもの(物理的にも精神的にも)だけにお金を費やすことができて、だから、断捨離とか流行りのミニマリスのように、精神的には逆に豊か。みたいな感じにならないだろうか。
なんだか社会主義マンセーみたいな文章になってしまったけれど、別にそういうことではなくて。お金の魅力と不思議について、思いを馳せた夜でした。