ロボット・ドリームズ
この作品は、ラジオの「こねくと」で紹介されて気になっていたところ、映画館で上映前に、羽田から神戸に行く飛行機で機内先行上映されていたので、観始めたのだが、映画は1時間40分、羽田-神戸間は1時間ちょい。必然的に、1時間ほど観たところで目的地に着いてしまった。物語的にも宙ぶらりんのまま(6月1日が待ち遠しい…!)となってしまい、上映開始早々に劇場に駆け付けることになる。そんな焦らされ感もあったとはいえ、しかし最後までコンプリートして、やはりこの物語は切なく、魂を揺さぶられる作品であった。その成功要因の一つは、2人の恋愛または友情の関係を、直接的に人間の異性あるいは同性カップルとして描くのではなく、犬とロボットとして描いたことなのは間違いない。これには原作があるそうだが、監督が自分の描きたいものとしてたまたまその題材を使ったのかどうかは分からない。が、結果的に意図通りの作品ができたという意味では成功と言えるだろう。
しかし、「犬」と「ロボット」という組み合わせは、実は問題となる要素もはらんでいる。犬は、孤独を紛らすために、ロボットを「通販で購入」し、組み立てる。つまりロボットからすると犬は「造物主」であり、「主人」となる。一方、犬からするとロボットはメイドロボットだったり、セクサロイド的な関係も匂わせる。つまり、本来は対等にはなり得ない関係なのである。そこを映画ではうまく隠蔽している。2人は友達ないし恋人のようにふるまうし、途中で離ればばなれになった後も、ロボットが、(タイトルのように)よく夢を見るのだ。お互いがお互いを思うことで、対等のように見せている。だから切ないし、ロボットがとんでもないことになった時には絶望するし、ラストがなんとも苦いものになる。だがちょっと待ってほしい。2人は最後別々のパートナーを得ることになるが、ロボットがおじさんに拾われて同居することになるのに対し、犬の方はまた、新しいロボットを購入している!ビーチでロボットが動けなくなった時も、人間だったらさすがに置いては帰らないところ、最終的には諦めて犬は帰ってしまう!これは、犬は根源のところではロボットを「物」とみなしているということを示唆しているように思える。見方によっては、ロボットの夢や心情描写は犬の想像ととらえることもできる。これは意図的か?おそらく、監督が自己を投影しているのは犬の方であり、自分のそういた見方を自省をこめて投影しているからではないだろうか。
そうだとしても、それは物語に深みを加えるものではあっても、決して損なうものではなかった。
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