リレー日記(2024年3月18日〜3月24日)文・nszw
バナナ倶楽部のメンバー4人が、1週間ずつ交代で日記を投稿します。今週の担当はnszwです。
3/18 いつでも誰とでも天気の話をしたい、それも感覚的に、無根拠でてきとうに
今日はまた寒くなってしまって、
「また気温一桁?」
「明日も寒いらしいですよ」
「えー」
「木金も寒いかも……」
「えー」
という会話を会社のひととした。僕はほんとに天気の話が好きなので、可能ならば毎日でも誰かと話したい。「日本海側で低気圧が発達してるみたいっすね」とか「太平洋側はところどころ曇りのち雨となるっぽいっすね」とか、そういう会話が行き交う日常。いや、それはちょっと僕の希望とは違っていて、僕はまじで感覚的で無根拠な話をしたい。どちらかというとむしろ「感覚的で無根拠な話をしたい」というのが本音であり、それを気兼ねなくできる話題として天気を選んでいるだけなのかもしれない。どちらでもいいのだが、とにかく天気の話が好きなのだ。
そんなわけで今日はまた寒くなってしまったので、昨日の天気を頭のなかで反芻していた。昨日はまず昼間の、春物のアウターを選んで出かけてもなおうっすらと汗ばむ、しかしその汗すらもなんだかうれしい陽気。雲ひとつなく、うっすらと黄みがかった青空のまぶしさ。あの黄みが仮に花粉によるものだとしても、少しも素晴らしさが減じないほどに気持ちのよい天気だった。汗すらも心地よいなんていうのは一年でほんのわずかな時期にしかあり得ないことなんですよね。なおかつ三月ともなればすっかり日も長く、夕方に帰宅した時点でも、窓から見えるマンションの上階にはまだ西日の照り返しが残っていて、それがなんとも日曜日の夕方という感じがしてほんのりさびしくもあり、しかしそういうさびしさを感じられること自体への不思議なうれしさのようなものもあり、奇妙なことだがトータルで考えるとうれしいが勝っていたかもしれない。
そんでもって、昼間がそういう感じの天気だと、夜もまた気持ちがいい。夕飯後にアイスを食べるという選択肢が自然と思い浮かぶ、それもぜったいに食べたいというほどのものではなく、「そういえばアイスあるね」「食べてもいいね」という具合の穏やかなやり取りが交わされる夜である。風呂上がりには半袖シャツ一枚で過ごせ、夜が更けるにつれてほんのり肌寒くなってゆくが、そうなると「肌ざみいでございまさあねえ」なんてつぶやきながら上にもう一枚羽織るという、ただ防寒をしているに過ぎないはずの挙動さえも、その背後にこれまで人類が何百年、あるいは何千年と過ごしてきたであろう数多の同じような夜──昼間暖かかったから夜もシャツ一枚でいけるかと思いきや意外に肌寒くなってきてもう一枚羽織る夜──が存在し、先人たちも同じように「肌ざみい」とつぶやきながら重ね着をしてきたであろう、その歴史の果てで僕がいまもう一枚の長袖シャツを羽織ろうとしているという、重ね着の時間的厚みのようなものがにわかに心に襲来する。昨日みたいな天気の日にはそういう時間の扉のようなものが開く。なんてことをいま書いているが、昨日はそんなことは一ミリも考えずにただ肌寒くなって重ね着をした。いまこうやって昨日の天気を振り返るに当たって、無根拠にてきとうなことを書いた。
3/19 石橋英子×濱口竜介『GIFT』
夜、石橋英子×濱口竜介の『GIFT』を観た。すごかった! パフォーマンス後のトークセッションにおいて、現在パリにいるというZOOM越しのハマリュウの顔がスクリーンに大写しで投影される形となり、本人も少し困惑していてウケた。激ネムなので寝る。
3/20 引き続き『GIFT』について、『すべての夜を思いだす』、『シー・チェンジ』
石橋英子からの「ライブパフォーマンス用の映像を作ってほしい」という依頼を受けた濱口竜介が、石橋英子のスタジオのある長野県にてロケハンをし、善悪のない自然に感銘を受けながら劇映画を想定して撮影した一連の素材から制作されたのが、『悪は存在しない』という長編映画と『GIFT』という無声の映像作品である。スクリーンに投影される『GIFT』を見ながら石橋英子が即興でパフォーマンスをする公演の八回目が昨日行われ、僕と同居人で観に行った。チケットを買っておいたはいいが、当日までどういう企画なのかよくわかっておらず、昨日ようやくわかったはいいものの、また忘れてしまっては元も子もないのでいまこうしてあらましを書いた。
ハマリュウによると二つの作品は同じ映像素材をそれぞれ別の形で編集したものだそうで、まだ『悪は存在しない』のほうを観ていないので実際のところはわからないが、おそらく話の大筋は似ているのだろう。しかし、これも同じく『悪は存在しない』を観ていないのでわからないが、観ていなくても断言できるほどに『GIFT』における編集のリズムやシーンの取捨選択は明らかに特殊で、まさしくライブパフォーマンスのための映像といえるものになっていたし、それに合わせてときに美しくときに不穏な音を当ててゆく石橋英子も素晴らしくて、映像と音楽の幸福な相乗効果が最大限発揮されていた。
映像の序盤に映される主人公親子の日常風景と、そこに合わさる石橋英子の驚くほど不穏な音楽(その不穏さは映像上のある編集とも重なることになるのだが)、その奇妙なバランスが心地よく、このまま日常風景が延々映される映像でもいいとすら思っていたところ、ちゃんと話が動き出すので最初はむしろ戸惑ってしまった。しかし特に終盤、話が思わぬ方向に展開していくのでそれはそれでおもしろく、ふとスクリーンから目を離してみれば石橋英子が片手で機材をいじりつつ片手でフルートを吹いていたりしておりとにかくすごい。『悪は存在しない』のほうも観るまで判断は留保すべきだが、少なくとも昨日の『GIFT』の公演は体験として素晴らしかった。
今日の午後は『すべての夜を思いだす』を観に行った。同居人は花粉症のせいかずっと眠そうだったので僕ひとりで行った。かなりいい映画だった。僕は映画の舞台である多摩ニュータウンにも行ったことないし、映画に出てきたひとたちと話したことも会ったこともないのに、明確に知っていると思える風景と、このひとたちは実際に存在するのだろうと確信できる足取りが映されていた。映画というものは、自分が体験していない記憶を呼び起こす装置なのではないか。『すべての夜を思いだす』を観た僕は、ある晴れた春の日に多摩ニュータウンの団地を歩き回った僕になったし、その記憶はなにか別の映画を観たり小説を読んだりしたときにふと思い出されることになるのだろうと思う。というかたぶん『すべての夜を思い出す』に映っていた風景を知っていると感じたのも、おそらく別の映画や小説、あるいは散歩中の記憶によって導かれた感覚なのだろうし、そうやって作品と作品、散歩と散歩どうしが繋がって、僕自身の生活に堆積していくのだろう。
映画館への行き帰りにはベックの『シー・チェンジ』を聴いた。なぜか聴きたくなったのだが、映画のモードとも合っていたように思った。帰宅してからはまだ寝転がっていた同居人を傍目に夕飯を作り一緒に食べた。夜には『百年と一日』の続きを読んで、これまた『すべての夜を思いだす』と共鳴していたように思った。以前図書館で借りて読んだはずなのだが、覚えている話と覚えのない話があって、その混ざり具合も不思議だし、話の内容を覚えていないとしてもそれを読んだということ自体はいまの僕の生活のなかにやはり堆積しているのだろうとやや都合よく思う。
3/21 引き続き『すべての夜を思いだす』を思い出す
昨日の『すべての夜を思いだす』はクライマックスになるような展開や描写が周到に避けられており、そのおかげで物語が閉じられていない感じがするのもすごくよかった。ハガキに記載されていた住所を尋ねても友人はもうそこには住んでいないし、外で夜まで待っていても待ちびとは来ないし、行方不明になっていた老人を家族に送り届けるというくだりも、その過程のみが描かれ、対面や歓喜のシーンは省かれる。一件落着、が描かれない。あげく、カメラはもう死んでしまったひとの視点にもなって(それはそのとき画面に映るひとがカメラに向かって話しかけてくることでわかる)、この映画が死者にも、あるいはカメラのこちらの僕たちにも開かれていることがわかる。その視点の行き来は、ちょうど劇中にチョイ役で出てきた滝口悠生の『死んでいない者』を思わせるし、あるいは『長い一日』において語り手が妻や友だちになる展開のことを思い出させる。語り手が勝手に妻や友だちの視点を借りて語り出すというのは、その語り手が僕にもなり得るということ、ようするに物語がこちら側まで来る可能性があるということを示しているのではないかと、今日も『すべての夜を思いだす』のことを思い出しながら思った。
閉じられていない物語のなかで、三人の女性の一日が、交差することはないまま、しかしゆるやかに触れ合う。一日の終わりにふと「なんか今日変なひといたな」なんてふうに思い出す、その変なひとにもそのひとの一日があり、そのひとはまた別の誰かを思い出し、そのゆるやかな連鎖がずっと続いていく。
今日は同居人が会社の同僚に貸していたニンテンドースイッチが返ってきたので、少しだけプレーしたが、久しぶりのマリカにはどうもハマれなかった。ゼルダならハマれるかもしれない。いまから少しだけやろうか、それとももう寝ようかという二択を決めあぐねたままこうやって日記を書いている。と書いたが実際はもう決めていて、もう寝る。眠いから。
3/22 かつて選ばなかったほうを選んで進む散歩
昨日早く寝たのに今朝は調子が悪くて、会社に遅れて出社する旨を連絡し、少し休んだがやはりよくならなかったのでやはり休むという連絡をした。それなら最初から休めという話だが、朝の時点では行くつもりがあった。調子がよくならなかったというのも、ほんとは精神的なストレスがあるのかもしれない。社会人になって何年も経つと、社会人であることに慣れる一方で、社会人でなかった頃からの自らのあり方との齟齬のようなものが、ある部分では消化されつつ、ある部分では溶けずに残ったままになったりして、そういうしこりのようなものが日によってははっきりと顔を出して「調子がよくないです」というようなことになるのかもしれない。
昼ご飯を食べるために外に出て、そのまま散歩をした。以前友だちと昼にジンギスカンを食べた日(というのを日記上で「ジンギスカン」や「散歩」で検索してみたところ昨年の十月九日のことらしかった)に散歩した道がなかなかいい感じだったのを覚えていて、そのときの道をもう一度歩けないかと思って探しながら歩いたのだがけっきょく見つからなかった。でもその代わり、以前から境内に入ってみたいと思っていた神社のなかを通ることができた。散歩をするということは常に分かれ道での二者択一を迫られ続けるということであり、選ばなかったほうの道にも後ろ髪を引かれつつ選んだほうの道を進んでいくということであるが、何度も同じ道を散歩することによって、前回は選ばなかったほうの道も選ぶことができる。それが家から歩いてゆける範囲を散歩することの醍醐味だともいえ、これがたとえばふと降り立った町での散歩となるとこうはいかない。一回きりの散歩において、選ばれなかったほうの道の先は、永遠にわからない。でも逆にそのわからなさのようなものを日常の範囲にも残しておきたいという気持ちもあって、何度も通っている分かれ道でいつも同じほうを選択するという場合もある。
むしろ同じ道を歩くことの快感のようなものも不思議とある。そうそう、ここからここに繋がるんだよね、というような。太い通りと付かず離れずの距離でくねくねとうねっている細い道が、最後にはやはり太い通りに合流する、曲でいうとまさにウィルコの「インポッシブル・ジャーマニー」のギターのような、と『スカイ・ブルー・スカイ』を聴きながら思った。今日はそれとエイドリアン・レンカーの『ブライト・フューチャー』を聴きながら歩いた。
小学校の前を通りかかったらちょうど卒業式の日だったようで、校庭で集合写真を撮影しているところだった。そのあとたどり着いた商店街には「ご卒業おめでとう」という横断幕が掲げてあって、奇しくも僕が卒業したみたいな感じになってしまった。
なってないか。
帰宅後、やはり少し仕事してから、積ん読になっていた齋藤なずなの短編集『夕暮れへ』を読んだ。中年、あるいは老年の生と死がほとばしるすごい漫画だった。調べると齋藤なずなはずっと多摩ニュータウンに住んでいるそうで、最後の短編「ぼっち死の館」の舞台である団地のモデルもおそらくそこであろう。奇しくも『すべての夜を思いだす』とまたリンクして、そういえばあの映画にも老人たちは登場していたなあ、と思い出すなど、またゆるやかな連鎖が続いた。ニラの味噌汁を作ったりしているうちに同居人が帰ってきて、夜は一緒にテレビ番組を見るなどした。
3/23 実家へ
同居人は今日も仕事があるということで出かけていった。僕は、車を買い替えたから運転しに来なさい、という誘いを受けて実家に帰ってきている。出会い頭に母に、ちょっと太ったんじゃない、といわれ、そのとおりでございやす、とおどけた。ジョイマンが出ているピルクルのCMは池谷が「なんだこいつ~」をいわずに終わってしまうから物足りない、という話を弟とした。
助手席に父を乗せてあれこれ説明してもらい、へえ、なるほど、などといいながら家の周りを大きく一回りする形で運転した。たしかに運転しやすかった。新しい車のバックミラーは、正確にはミラーではなく、車の後部に付いているカメラからの映像がミラーに擬態しているもので、父曰く、車の前の景色とそのバックミラー風映像を交互に見ようとするとそのたびに目の焦点を調整する必要があり、老眼には疲れる。買い替えた当初は少し酔いもしたとのことで、僕はその話にたいしてもやはりなるほどと応じた。
家の近くには沼があり、その外周を大きく回って、向こう岸まで行く形で車を走らせた。向こう岸、というのは隣の市に入ることになるのだが、走らせているうちに僕の知らない工業団地が現れ、こんなところ初めて来たな、とつぶやくと、助手席の父が、いやいや、あんたが実家にいる頃から何度も車で通ったことがあるはずだよ、といわれた。「あんた」と書いたが、父ははたして僕のことを「あんた」と呼んでいるだろうか。「あんた」ではなく下の名前で呼ばれているような気がする。いざ書こうとすると、なんと呼ばれているかということもわからなくなる。それはともかくとして、工業団地。何度か通ったことがある道だとしても、かつての僕はそれを単に窓の外の景色としてしか認識していなかったようだ。もしかすると以前通ったときには僕は運転者ではなく、後部座席に乗っていたのかもしれず、そうなると匿名の景色としてしか見ていなかったというのも納得がいく。車に乗るとき、運転席、あるいは助手席に座るのと、後部座席に座るのとでは、周囲への関心の度合いというのが大きく異なるという実感がある。
それとも、昨日の日記で散歩について書いたことで、景色全般にたいして敏感になっているのかもしれない。今日実家に帰ってくるときに乗った電車でも、車窓を流れる景色を眺め、そのなかに散歩しがいのありそうな場所を見出しながら座っていた。かつての僕がおよそ十年にわたる通学において何千回と目にしたであろう景色であっても、そのなかを散歩しようという観点で見るとまったく別の階層が立ち上がってくる気がするのだった。でも、よほどの気まぐれを起こさない限り、わざわざ途中駅で降りてその景色のなかを実際に散歩するということにはならなさそうで、僕はけっきょく、たくさんの景色を目にして、そのなかを散歩することを想像しながら、いまの家の周囲ばかりを何度も散歩し続けるのだろうと思う。それはまったく悪いことではない。
3/24 実家の枕の尋常でない低さについて、沼沿いの遊歩道を自転車が進む、自分なりのヒラヤマ
いま使っている枕と比べると実家の枕は尋常でないほど低い。はたしてほんとうにかつての僕はこの枕で寝ていたのか。でも考えてみれば、いま使っている枕も、枕自体がそこまで高いわけではなく、下に小さなクッションを敷くことでかさ上げしているのだった。どうしてそんなことをするようになったのか、最初の経緯は忘れてしまったが、もしかすると横向きに寝ようとするときに肩がこらないようにするにはいまの高さがちょうどいいということなのかもしれない。
ということを昨日の夕方、実家の枕で横向きになって昼寝したあと肩と首のあたりが痛くなっていたので思った。そんなわけで、経緯はともかくとしても、実家の枕がいまの僕にとって低いということには変わりはないため、昨日の夜はなかなか寝つけなかった。いろんな体勢を試したあと、枕を半分に折って二倍の高さを作ることで落ち着いた。しかしそんなふうに無理やり枕を変形させるというのは、枕界における自然の摂理に反する。けっきょく僕はその変形枕に変な夢を見させられ、深い眠りにつくことができないまま、六時半くらいに目を覚ました。朝食のあと二度寝した。二度寝の際にもやはり枕を半分に折った。
午後は父に自転車を借りて家の周りを走った。電動自転車だった。晴れとも曇りともつかない微妙な気候だったが、春の天気とはこういうものだったかもしれないと思わせられる気持ちよさがあった。風が強くなくてよかった。汗をかかないくらいの速度でペダルをこいだ。
昨日車で走った沼の周りを今日も走った。沼の周りには車道と別に遊歩道があって、歩行者や自転車が通れるようになっている。そこを走った。曇り気味の天気のせいで水面が美しくきらめいているとまではいかなかったが、それでもいい景色だとは思えて、そこにいる釣りびと、散歩する人びと、ベンチで本を読むひと、なぜか田んぼのなかでくつろいでいる白鳥、遊歩道に上がって人びとに絡まれている白鳥、その他のわからない鳥、すべて引っくるめて春のはじまりの日曜日の午後というひとつのセットのようでよかった。でもこうやってよかったと思うのが、たまに帰省して懐かしさを覚えるかつての地元民としての感情なのか、まったくの観光客的な感情なのか、はっきりしない。
自転車は遊歩道を進み、やがて沼を横断する橋へと差し掛かった。向こう岸には道の駅があった。昔はしょぼかったはずのそこはいつの間にかリニューアルしてたいへん賑わっていて、僕が都内でよく行く本屋も小さなブースを出店したりしており、いかにもイマっぽくていい感じになっているのだった。なかを一回りしてからまた自転車に乗って橋を戻った。
そのあとは昔よく行っていた図書館があるほうへと遊歩道を進んでいった。その図書館で最初は児童書を借りまくり、高校生になってからはCDを借りまくった。そこで借りていた児童書というと一番に思いつくのは「ぼくは王さま」のシリーズ。CDはなにを借りたか思い出せない。
今日は懐かしさをそのまま残しておきたい気持ちがあって、図書館のなかには入らずに帰った。夕方まで読書してから夕飯をいただき、東京の家へと帰った。実家へ帰ることも、サイクリングから帰ることも、東京の家へと帰ることも、すべて「帰る」になる。帰りまくっている。
同居人は今日うどんを食べたりジムに行ったり銭湯に行ったりして、銭湯で壁の富士山の絵がきらめいているのを見ながら、ヒラヤマじゃん……と思ったそうだ。自分なりのPERFECT DAYSを見つけていこうって話っすよ!
文・nszw(29歳/さそり座/左利き)
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