大阪市立デザイン教育研究所創立30周年記念「デザイン教育の100年」メモ
大阪市立デザイン教育研究所創立30周年記念「デザイン教育の100年」で、大阪大学名誉教授藤田治彦先生の講演を聴きにきました。
デザイナーでなくても知っているバウハウスを、マルセル・ブロイヤーを軸に「デザイン教育」という視点から切り取った藤田先生のトーク、とても勉強になりました。
マルゼルブロイヤー も、当初はアーツアンドクラフツ風の作風だった。初期のアフリカンチェアはこんな感じ。モダンデザインと全くちがう。
それまでの美術アカデミーは、
巨匠の素描の模写、古典彫刻の模写、人体デッサン
バウハウスは
半年の基礎課程、その後各種工房で実践制作
を学ぶ。
上はバウハウスのカリキュラム(英語版)
このカリキュラムは、それ以前にロンドンのセントラル・スクール・オブ・アーツアンドクラフツで始まったものだった。それを踏襲しているようだ。
イッテンは思想的な偏りがみられたため解雇され、その後、モホリ・ナギが招聘される。タイポグラフィをカリキュラムに加えるなどバウハウスに大きく貢献した。
バウハウス同時期に、オランダでは「デ・ステイル」が興る。
モホリ・ナギは、キネティックアートの先駆者にもなる。
デ・ステイル (De Stijl) とは、1917年にテオ・ファン・ドースブルフ(英: Theo van Doesburg, 1883年 - 1931年)がオランダのライデンで創刊した雑誌、及びそれに基づくグループの名称。「デ・ステイル」とはオランダ語で様式(英語:The Style)を意味する。
kinetic artとは、動く美術作品または動くように見える美術作品のこと。 ただし、映画やアニメーションなどは、通常はキネティック・アートとはされない。 カイネティック・アートと呼ばれることもある。
1923年の展覧会でバウハウスが近代デザイン教育機関として注目されるようになる。
1927年、ヴァイセンホーフ住宅展示の家具類を翌年ドイツ工作連盟が『内部空間』として出版、スチールパイプ製の椅子などが初めて国際的に紹介された。編集者はヴェルナーグリフ。
ブロイヤー以外に、マルトシュタム、ミースファンデルローエの椅子も掲載されている。
シュタムやミースのパイプ椅子は、シンプルで簡素なものが多いが、ブロイヤーのクラブ・チェアはは座面、背もたれ、ひじ掛けがある安楽な椅子といえる。
ブロイヤーは、自ら執筆した記事も載せている。鋼製家具について、当初は批判されるものと捉えていた。外観も素材の用法も極限であるため、非芸術的で、論理的、もっとも安楽に見えない。機械的に見えるからだ、とのこと。
1926年には、ブロイヤーは「バウハウス映画、五年の歳月」のエディトリアルデザインも手がける。6コマのフィルム状の要素に自作を配置し、近未来を表現した。「 e in bauhaus - film」
ブロイヤーはその中で、1923-24年には構成主義、デ・ステイル的になっていく。と書いている。例リートフェルとの赤と青の椅子。1925年の
クラブ・チェアの形もデステイル的デザインから発展させたのでは。
ブロイヤーのクラブチェアの座面と背もたれのみが傾斜している、というのはリートフェルの赤と青に似ている箇所が多い。垂直と水平のラインが特徴的な点など、、、
19??「弾力性のある空気の柱の上に座る」として近未来を予測。
例えば1968-69のイタリア、ザノッタ社製のブロウという椅子が近い?
女性の持たれ方を見ると、ブロイヤー自身のチェスカという椅子に近いのでは。クラブチェアからキャンチレバー椅子へ進化し、空気の柱を実現する、という姿勢の表明?
ブロイヤーは、物理的な構造と、視覚的な構成をともに重視していた。この構造と、構成を整合、非整合ともに認め、独自のデザインを追求していく。
ブロイヤーはチェスカを製作した1928-29に、建築でもキャンチレバーを試みた。エルバーフェルトの病院のコンペ案
バウハウスは、1933年にナチスの迫害により閉校。ブロイヤーはグロピウスと共にアメリカのハーバードで建築を教える。住宅設計に専念することに。
渡米後のブロイヤーの建築は、一般住民で大きなベランダを実現。ただし細いワイヤーで吊られている構造。ブロイヤーはおそらくライトの落水荘に影響を受けたのでは。落水荘は太い柱梁で支えられた大きなベランダが特徴。
ブロイヤー邸1、コネチカット州、ケイナン、1947ー49年。
2年後の1951年にはブロイヤー邸2を建築。ただし、この時はキャンチレバーではなく平屋みたいな形
この1951の邸宅の中のニュー・ケイナン・デスクはキャンチレバー構造。これは最初のブロイヤー邸1のシルエットに似ている。ブロイヤーはその後大型の公共建築を手がける。パリのユネスコ本部では純粋なキャンチレバー構造を実現していく。
ブロイヤー建築のホイットニー美術館(現 Met ブロイヤー館・下)は、先ほどのブロイヤー初の建築デザインを実現したものと言える。細い支柱無しの純粋なキャンチレバー。
近いエリアに作られたグッゲンハイム美術館(下)はライトが設計。ライトは個々の作品には関心が無かったが、大アトリウム空間から全フロア、全作品を同時に見せられるパノラマ的な設計をし、ジャンルを超えた現代アートのあり方を進めた。一方でグッゲンハイム美術館は床が傾斜しているので批判多かった。
戦後のアメリカではキャンバス自体を自由に形作るシェイプドキャンバスが現れ、ホイットニー美術館建設以前のグッゲンハイム美術館でも展覧会が行われた。その後ホイットニーでも同展覧会が行われた際には、特徴的な台形の窓もシェイプドキャンバスに見えた。
ライトのグッゲンハイム美術館がパノラマ的なのに対し、
ブロイヤーのホイットニー美術館はジオラマ的、カメラ・オブスクラ的と言える。
バウハウス閉校後の1933年に、アメリカノースカロライナに進歩的芸術教育機関、ブラック・マウンテン・カレッジが開校。その後資金難で閉校、ドイツでもウルム造形大学が開校するも、その後閉校。
フランスでは芸術学科として学科を分けずに1つにまとめた美術学校が多い。全ての学生が木工、金工、テキスタイルを学ぶ。卒業設計はどのジャンルによるものではない、自らの価値観に基づいて新しいものを創作するかたちとなる。
日本におけるデザイン教育でも、グラフィック、プロダクト、建築などといった分野で分けるのではなく、横断的な教育のカリキュラムを進めていく方がいいのでは無いか。
バウハウス、マルセル・ブロイヤーを「デザイン教育」の視点からまとめた藤田先生のトークはとても示唆に富む貴重なものでした。
デザイン自体がそれほど長い歴史を持つものでは無いなかで、テクノロジーや社会情勢の変化といったものにその時代時代で適応しながら、いろいろと変遷があったのだととても印象深かったです。俯瞰的にみるとそれぞれの建築家やデザイナーの位置づけもはっきり把握でき、これかの未来のデザインを考える上でも非常にいいトークでした。
以上の聴講時にポストしたtweetを時系列にまとめたものです。
https://twitter.com/shimizuryo
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?