いまさら村田沙耶香「コンビニ人間」を読んだ
※小説の結末までふまえた感想ですので、未読の方はご注意ください。
本当に今さらながら、村田沙耶香の「コンビニ人間」を読んだ。本作は第155回(2016年上期)芥川賞受賞作である。
ぼくはほとんど遠藤周作から文学を好きになったようなものだけど、大学に入る前後から「文学が好きっていうなら、さすがに今の文学も読んでないとダメだろう……」と思うようになった。それで時折『文學界』などの文芸誌を手に取ったり、2010年代の芥川賞受賞作はなるべく追いかけるようにしている。だが本作が受賞した年は、受賞作の題名を確認したりネットで評判を見たりはしたものの、忙しくて実際に読むまでは手が回らなかった。ついこの間書店で文庫化されたばかりの本作が並んでいたので、読んでいなかったのを思い出して慌てて手にした次第である。
ただ、正直言って芥川賞受賞作というのは個人的に興味を惹くテーマもあまりなく、円城塔の「道化師の蝶」や又吉直樹の「火花」が面白いな、と思ったくらいだった。そもそも遠藤周作に興味を持ったきっかけが、当時キリスト教のことをもっとよく知りたいと思っていたからであり、ぼくは純粋な文学好きではない。「宗教性」とまでは言わずとも、キリスト教について何らかの形で触れている文学を好んできたので、芥川賞受賞作に興味を持てないのは当たり前なのだ。
それでも「コンビニ人間」には仄かな期待を寄せていた。文庫本のバックカバーに書かれていたあらすじに興味を惹かれたし、「現代の実存を軽やかに問う」とも謳われていたからだった。ちなみに、そのあらすじは以下の通りである。Wikipediaにはラストまで含めて書かれているので、未読で知りたいという方はそちらも参照されたい。
「いらっしゃいませー!」お客様がたてる音に負けじと、私は叫ぶ。小倉恵子、コンビニバイト歴18年。彼氏なしの36歳。日々コンビニ食を食べ、夢の中でもレジを打ち、「店員」でいるときのみ世界の歯車になれる。ある日婚活目的の新入り男性・白羽がやってきて……。
(ちなみに、「文春文庫 最新刊」紹介文の謳い文句は「コンビニバイト歴十八年の恵子は夢の中でもレジを打つ」である。いや確かにそういう内容があるが、一文とはいえそこを抜き出すのか……?)
読んでみた結果……いや楽しい読書だった。
本作が芥川賞を受賞したころだったか、ブログか何かで主人公・古倉恵子について徹底した合理主義者、あるいはサイコパスの徴候すらあるのではと指摘するレビューがあったように記憶している。そして、社会の画一性を嫌いつつ自分もその基準に乗って他者を攻撃する人物である白羽もまた、ややデフォルメ化されすぎているようなきらいがある。
だが、少し落ち着いて自分の身の回りの人々のこと……いや、自分自身の「個」のなかに周囲とは異なる要素があることを顧みると、中々そうは言い切れなくなってくる。解説で中村文則氏がいっているように、「デフォルメ化されたように見える人物達が、ポップさとライトさを維持したまま、妙にリアルに、生々しく面前に迫って来る」ように思えてくる。
中村氏は「主人公の『個』は、『個』を本来それほど必要とされないコンビニという世界の中で、圧倒的に輝いている」と指摘した上で、「この『矛盾』を超越した領域を、この小説は一つの現象として、文学として描ききっているのではないだろうか」との感想を述べている。つまり、中村氏が言う通り「社会は多様性に向かっていると表面的には言われるが、この小説にある通り決してそうではなく、実は内向きになっている」、「社会が『普通』を要求する圧力は、年々強くなっているようにも思う」といわれる社会……いや人間たちのことを、特に否定するでもなく強く肯定するでもなく、それをあるがままに描き出すという文学のひとつの使命を達成しているということである。
事実、ぼくらの眼の前に広がる社会は、多様性に向かってはいないように思われる。この小説のなかで白羽が指摘していることと少しだけ重なるが、いつの時代も声の大きい価値観へ向かって社会は画一化されていく。
こういうリベラルな幻想が打ち砕かれた今の社会について、それを「ジャッジ」するのではなく、あるがままに描き切る。そこに、この小説の文学的意義があるのかなぁと思う。
もうひとつ。
主人公の人物造形についてはややデフォルメ化されすぎているといったが、それでも上手いと思わざるを得なかった。彼女は一見合理主義者でありつつ、自らの置かれている環境が崩されてしまったことへの哀しみを抱き、そこに戻っていくことに悦びを見出している。18年間働いてきたコンビニを白羽にやめさせられた後、彼女の生活がコンビニから離れて荒んでいく様を描いた数ページ、行間から滲み出てくる哀しみ……というと語弊があるのかもしれないが、まあその「エモさ」には凄まじいものがあった。正直に言えば、ぼくはその数ページ、恵子の虚しさに同化して泣きそうになってしまったほどだ。
この恵子の愛着は合理主義的ではない。確かにコンビニの清潔感や無機質な感じが彼女の性質に合っているかのように書かれている。しかし、本当は彼女の居場所は社会の歯車となることができる場所であればどこでもいいのである。それは、実際コンビニの同僚たちの様々な要素が「伝染」することで、彼女自身が変化しているという序盤の描写にも示されている。
今の「私」を形成しているのはほとんど私のそばにいる人たちだ。……
特に喋り方に関しては身近な人のものが伝染していて、今は泉さんと菅原さんをミックスさせたものが私の喋り方になっている。
大抵のひとはそうなのではないかと、私は思っている。……私の喋り方も、誰かに伝染しているのかもしれない。こうして伝染し合いながら、私たちは人間であることを保ち続けているのだと思う。(文庫版、31頁)
彼女がコンビニという居場所にこだわる理由は、コンビニの感覚が自身の「個」に重なり合うものだと18年前に認識し、他の居場所に移っていく必要性を認めないので動かないでいた結果生まれてしまった、愛着からなのだ。さらに、彼女は同僚たちからの影響が自らに「伝染」したと考えているが、彼女は自らを社会に適合させるためにそれら要素を意識的に取り入れているのであって、「伝染」という言葉自体、実は彼女の一見合理主義的な意識に迎合させた言葉である。
だから恵子の思考は、実際には合理主義でもなんでもない。彼女もまた画一化に向かう現代社会人と同じく、自らの生きる社会に同化することにこだわり、そうすることに愛着を持っているひとりなのだ。それをふまえて最序盤を読み返すと、次の文章はその愛着の現れだったのかと、はっとさせられた。
そのとき、私は、初めて、世界の部品になることができたのだった。私は、今、自分が生まれたと思った。世界の正常な部品としての私が、この日、確かに誕生したのだった。(25頁)
そういう意味で、古倉恵子は私たち自身のもつ性質を誇張しデフォルメ化したようでありながらも、実に「リアルに、生々しく面前に迫ってくる」作中人物となっているのである。