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語ることで変わりゆく、ナラティブ
「事実というのは、ただそこにあるだけでは意味がなくて、繋ぎ合わせて意味を見つける必要があるものなのだ」
前に読書メモとして残しておいた日記に、そんな言葉が書いてあった。当時読んでいたのは、森岡正芳氏の『臨床ナラティブアプローチ』だ。
ナラティブアプローチとは、カウンセリングなどの支援の場においてナラティブの手法を用いるアプローチのことを指す。では、ナラティブとは何かと言うと、これがちょっとややこしい。一般に「物語」と訳されるけれど、語源にはラテン語の narratus(=語られた)がある。
つまり「誰かを通して語られた物語」であること、語るという行為が与える影響が重要になってくる。たとえば、同じ物語という意味でも「ストーリー」は常に変化せず固定されたものだとすると、誰かに語るという行為から生まれる「ナラティブ」は、いつ語るか、誰に対して語るか、どこで、どんな文脈で語るかなどによって、何通りにも変化するという違いがある。
たとえ同じ客観的事実をもとに語ったとしても、語り手がその時どの出来事を選び取り、どのように意味づけるかで、全く別の物語になるのかナラティブなのだ。
ゲームの世界にもナラティブと言う言葉がある。この場合、用意されたストーリーに沿ってゲームが進むのではなく、プレイヤーの行動によってストーリーが複雑に分岐するタイプのゲームのことを言うらしい。2018年にリリースされた『Detroit: Become Human』は、そんなナラティブビデオゲームの傑作だと言われている。
そんな『Detroit~』の中には、ある父親が自分の子どもを虐待するシーケンスがある。ゲームの中のプレイヤーキャラはそれを止めようとするのだが、父親はそのプレイヤーキャラにも暴力を振るってくる。そこでプレイヤーがある行動を選択すると、プレイヤーキャラは抵抗の末にその父親を殺すことになる。そして子どもを家から助け出す。
プレイヤーはこう思うだろう。
「正当防衛だ。今、私は悪い父親から子どもを助けてあげたのだ。そういえば顔つきもいやらしい、嫌な奴だった」
しかし、もう一度同じゲームをやり直す時、その家の中のオブジェクトをよく調べてみると、抗うつ薬の瓶や家族の写真が見つかる。そこに気付いたプレイヤーはこう思うだろう。
「父親は精神に問題を抱えているだけで、本当は家族を愛しているのだ。今思えば、彼はとても悲しそうな目をしていた」
このように、ゲームでもどの事実に注目するかで、まったく違うナラティブが生まれる。さらに人がそれを語る時は、何を強調するか、どんな言葉を使うか、何を語るか語らないかの中にも、語り手の隠れた感情や価値観が見えて来る。
出来事がどのように選ばれ、どのような文脈の中で意味づけられているかに焦点をあてる。なぜ、ある事柄がナラティブの中にあり、他の事柄はナラティブに出てこないのか。ある事柄は当事者のナラティブで重視されるのに、他の事柄はそうでもないのはなぜか。このようなことを思いめぐらすことによって、ナラティブの中に隠れていた価値観、感情、力関係が、当事者にもセラピストやワーカーにも明らかになってくる。
(『臨床ナラティブアプローチ』森岡正芳)
そして、何かを一度語ることで語り手が新しい事実に気付いたり、その感情に変化があったりすれば、次に語った時のナラティブはそれを反映し、また違うものになるのだ。
ナラティブは語られる度に変わり続け、終わりがない。
森岡氏は、ナラティブの現実観をこのように説明する。
現実は話すことを通じて作られ、作り替えられる。したがって現実とは単一ではない。ナラティブアプローチはこのような現実観をもつ。
2010年、アメリカの家庭医であるロバート・テイラーはナラティブに基づいた治療(narrative-based medicine, NBM)を、「患者が自身の人生の物語を語ることを助け、『壊れてしまった物語』をその人が修復することを支援する臨床行為」と定義した。
予期せず病気になる、障害を持つということは、その人の「人生の物語」を壊してしまうことがある。「おれは体も心も強い。バリバリ働いて、いつか昇進して、結婚もして、子どもを持つ」という物語を持っていた人が、ある日うつ病になったらどうだろう。そのように、本人が思い描いていたものとは違う生き方が必要になるとき、新しい人生の物語を作り出すための作業が必要になる。それを支えるのがNBMというわけだ。
私もうつ病になり、発達障害であることがわかったことで、「人生の物語」はあっさり壊れてしまった。人生の物語が壊れるというのは、現在や未来だけの話ではない。私の場合は、「もっと早く支援を受けていれば違っていたかもしれない」「親がもっと早く気付いてくれていれば」「誰も気付かなかったのは私が愛されていなかったからだ」……こんなふうに過去にも遡って、自分の人生の、それこそ全体が歪んで、形を保っていられなくなったように感じた。
生まれる時に臍の緒が首に絡まって仮死状態になったという話も、それまでは何とも思っていなかったのに、うつで何もうまく行かない時は、あの時自分は死んでおくべきだったんじゃないかと思うようになった。
それまで無意味だったエピソードが、急に意味を持ったのだ。
今現在は、もうちょっとマシだ。マシになっている、ということに、昨日、私自身が母のことを文章にしたのを読んでいて気づいた。昨日のnoteの中で、私は母が自分を愛していたことを認めて、自分がそれをうまく受け入れられなかったことに折り合いを付けたいと思っていたのだ。自分が書いたことに他ならないのに、今日改めて読んでみると、「私はそんなふうに思ってたのか」と驚いてしまった。
ナラティブは変わっていく。
さまざまなものごとや、対話の影響を受けながら。
だから、私はもう少し自分について語り続けようと思う。診察室で。そしてnoteで。その度に考え方は少しずつ変わっていくだろう。そうしていつか、自分の人生の物語がすっかり回復していることに気づくのかもしれない。