エステル゠ドルゴフとサム゠ドルゴフへのインタビュー
原文:https://libcom.org/article/interview-esther-and-sam-doigoff-doug-richardson
原文掲載日:2020年5月16日
初出:『Black Rose(ブラックローズ)』1975年春号
インタビュアー:ダグ゠リチャードソン
(訳者註:原文にはないものの、適宜リンクを貼りました。この翻訳を友人の白仁さんに捧げます。)
長年にわたるアナキスト、エステル゠ドルゴフ(1905-1989)とサム゠ドルゴフ(1902-1990)に1920年代から1970年代の米国アナキズム運動について聞いた。このインタビューは『ブラックローズ』誌1975年春号に掲載された。
イントロダクション
「私にとって、アナキズムはプロセスだ」とサム゠ドルゴフは説明する。「純粋なアナキズムなどない。アナキズムの諸原則を社会生活の諸現実に適用するだけだ。」このように確立された自身の「信条」と共に、サムとエステルは、このインタビューで20世紀初頭の米国アナキズムの伝統とアナキズム運動における自分達の経験を述べていく。
アナキズムの歴史でこの時期については一般的にほとんど知られておらず、理解されていることはさらに少ない。これは酷く歪曲された歴史である。明らかに政治的な理由からアナキズムに関わる出来事は公に書き変えられてきた。これは世界中で行われ、ほぼ当たり前となっている。資本主義の報道だけでなく、国家「共産主義」の報道でも常に・徹底的に行われてきた。アナキズムは特徴として、その歴史を強奪されてきたのだ。1936年のスペイン革命は最もよく知られた一例に過ぎない。
1880年代から1920年代にかけて、北米アナキズム運動は重要な社会勢力を代表する存在だった。米国におけるこの時期のアナキズム活動は、かなり詳細に記録されている。この運動の補遺的な事件、サッコ・ヴァンゼッティ事件もそうだ。そして、1920年代頃になると姿を消し、リバータリアン政治の暗黒時代とも言える時代に突入する。中央集権化と推定される効率性と共に、完全に姿を消していく。企業資本主義と国家資本主義が他の全てを一掃した。1920年代初頭から1960年代半ばの新左翼台頭まで、米国社会でアナキズムは事実上一つの勢力として言及されていない。
手に入る最良の歴史、正直であろうと努める歴史であっても、大抵は1920年頃に終わる。アナキズムの衰退を説明する伝統的分析は旧時代説だ。この説によれば、今日ではアナキズムは基本的に時代錯誤であり、過去に根差した思想で、その時代は既に終わっているという。この傾向は、アナキズムに感傷的な敬意を表しつつも、シンプルな時代には優れた思想だったが、現代の複雑な世界の「諸現実」には極めて不充分だと示唆する。
その結果、米国アナキズムのほぼ全ての歴史は1920年頃に終わる。運動は、人為的で(歴史家にとって)心地よいコンテナに入れられ、格言のゴミ箱へ追いやられてしまった。
この「アナキズムは死んだ」理論は、当然ながら、それ以前の運動が突然衰退した理由を具体的言葉で説明する必要を排除し、同時に継続性の問題も排除した。現在までこの流れを辿る試みは行われていない。
このインタビューでエステルとサムは、昔の運動、そして、その後の低迷期に続けられた様々な活動の一部について語っている。彼等は、運動の具体的性質・運動に影響した歴史的力という点で、20年代から30年代の伝統的アナキズムの衰退をリアルに説明し、イデオロギー的連続性・過去のアナキズムと現代のアナキズムの関係について問題を提起する。総じて類似性は顕著だが、確かに時代は変化し、2つの運動は時間の隔たりだけでなく、介在する歳月を蝕んだ膨大な社会的・物質的変化によっても分離されている。初期の運動の経験には価値あるものが数多くあり、一般に過去から学ぶものは多い。しかし、もちろん、私達は、過去の模倣を勧めているのでもないし、アナキストの「遺産」を奉ったり、個々の英雄を創造したりすることに関心があるわけでもない。逆に、過去は神秘性を取り除いた上で理解されねばならない。未来に必要な創造的統合には、過去の発展を真剣に分析し、徹底的に理解しなければならないからだ。
ドルゴフ夫妻は共に70代で、現在ニューヨークシティ(NYC)に住んでいる。エステルは時折講演を行っている。サムは住宅塗装業を生業にし、多くのパンフレット・労働関係記事・2冊の本(『The Anarchist Collectives』と『Bakunin on Anarchy』)の著者でもある。このインタビューは『ブラックローズ』誌のメンバー数名によって編纂された一連の口述歴史インタビューからのものである。このシリーズは北米アナキズムの様々な側面(イタリア人運動・ユダヤ人運動・20年代の衰退など)を取り上げている。詳細は「ブラックローズ口述歴史記録プロジェクト(the Black Rose Oral-History Project)」P.O. Box 463, Cambridge, Mass. 02139にお問い合わせ頂きたい。
ダグ:これから、1920年代から現在までの過去50年間ほどの北米アナキズムについてお話し頂こうと思います。お二人はどのようにしてアナキズムに関わるようになったのですか?
サム:そうだね、私は若い頃イプスル(Yipsle)だったんだ。ほら、社会主義青年同盟(Young People's Socialist League)だ。彼等は社会民主主義者だったね。当時、ロシア革命の頃だった、社会主義者のモリス゠ヒルキットが選挙に立候補して、より良いミルクをとか赤ん坊のためにとか、本当に改良的なプログラムやなんかを主張してた。長く激しい戦いをそこでやったよ。私は、社会民主党は余りにも改良主義で、魂のない運動で、民主党と共和党を真似しようとしていると言って、彼等と多くの論争をしたのさ。彼等は言ったね。「君はここの人間じゃない、アナキストの仲間だ。」それで私は「そいつは面白い。住所を知っているかい?」と言った。それでそこに行って、当時「自由への道」と呼ばれていたグループと知り合いになったんだ。編集者はヒポライト゠ハヴェルという人物で、もう一人がエマ゠ゴールドマンの友人のワルター゠スターレット゠ヴァン゠ヴォルケンバーグだった。ワルターの片足は木製の義足だった。スケネクタディの鉄道事故で失ったんだ。それはともかく、アナキスト達の中に入ってみると、彼等は「君は本当のアナキストじゃない、本当はウォブリーだ!」と言った。で、私は「彼等の住所を知っているかい?」と言った。で、そこに行って、ウォブリーズと知り合いになったんだ。それ以来、私達は、誰がアナキストで誰がそうじゃないかを議論しているってわけだ。もう50年以上前のことだ!そして未だに結論が出ていないのさ。
ダグ:幸い、その問題に結論を出せる人は誰もいませんね。エステルさんはどのようにしてアナキズム運動に関わるようになったのですか?
エステル:そうね、父の甥です。父よりも5歳年下でした。昔の国でね、大家族だったから…。
ダグ:どこの国ですか?
エステル:ロシア領ポーランド。長女は母親と同じ時期に身籠っていたんですよ。若くして結婚して、大家族だったから。ともかく、私の父の甥はアナキストで、学生が民衆のところに行って読み方を教えるという運動に参加していました。
ダグ:ナロードニキ?
サム:違うね。ナロードナヤ゠ヴォルヤ(人民の意志)さ、もっと後のグループだ。
エステル:彼が米国に来る前から、母は、彼がいかに自分のことに無頓着か話してくれた。彼を捕まえて服を直させなきゃならなかったとか、食事するのを忘れているようなので食べさせてあげなきゃならなかったとか。彼と妻はストライキを計画して実行したんだけど、奥さんはインフルエンザで重病になって、彼は逮捕されてシベリア送りになるところだった。このゴタゴタの間に、奥さんはインフルエンザで亡くなった。ユダヤ教の戒律では、日没前に遺体を埋葬しなければならないんだけど、そのような時代に、彼の義母は、当時の地下鉄のようなものを使って彼をロンドンに送り出す手配をしていた。娘の遺体を埋葬しなかったから、家に石を投げられていたわ。
ダグ:つまり、ラディカルな家系だったわけですね…。
エステル:ええ。これらがアナキズムと関わる始まりの一部です。
ダグ:お二人は人生のほとんどをNYC周辺で過ごされたのですか?
サム:えっと、私がエステルと会ったのは1930年代のクリーヴランドの講演ツアーだった。私がアナキストになったのは、確かその10年前ぐらい、1920年代だった。
でも、まず別な問題に答えたい。アナキストであるということについてだ。この運動の情況に少しばかり光を当てたい。アナキズムというのは大きな傘だ。傘の下には様々なアナキストがいる。私が関わっていた「自由への道」というグループの人達は、いわゆるコンビーフハッシュ、アマルガムってやつだった。あらゆる人達がいたよ。人の数だけアナキズムのブランドがあった。
ダグ:協力し合えたのですか?
サム:まぁ、それが問題だったのさ。大半が組織を信じちゃいなかった。階級闘争を信じていなかった。労働時間短縮のような当面の要求を信じていなかった。アナキズムは民衆の運動にはなり得ず、エリートの運動にしかなり得ないと考えていた。そして、自分達は何が起こっているのか理解できるエリートの側だと自画自賛していたんだ。社会問題に対する合理的アプローチなんてありゃしない。ユートピアンより酷かったよ(ちなみに、私はユートピアンをそれほど悪いとは思っていないけどね)。ただ、彼等のアナキズムは臍に始まり臍で終わっていた。神聖なるエゴって具合だ。言い換えれば、最も非社会的な個人主義、ボヘミアニズムの一種だった。当たり前だけど、彼等の間ではそれで何の問題もなかった。でも、私達若造にとっては、少しも良くなかった。彼等は2つのグループの間の交渉委員会すら認めなかったろう。そして彼等は最も密教的なカルトに傾倒し、菜食主義だのヌーディズムだのそういったものをアナキズムと同じだと考えていた。半宗教的なものもあったよ。薔薇十字団とかトルストイアンとか、世界に手本を示すんだっていう入植者とかね。まぁ、私はそんなのに一度も満足しなかったけど、他に答えも持っていなかった。アナキズムについて何も知らなかったからね。私はとても興味が湧いてきて、クロポトキンを読んだ。独学で色んな言語を勉強して、文献やアナキズムの古典を読めるようになった。アナキズムの古典や革命運動の歴史とかその他もろもろを読んだ後では、もう彼等と一緒にやっていられなくなった。余りにも相違点が多過ぎた。知っての通り、私はアナルコ‐コミュニストでアナルコ‐サンジカリストだ。私には分かったんだ。でも、シュティルナー派とかそういうのじゃない。さらに、アナキズムにはハイフンが付かなければ何の意味もないというところまで行き着いた。そうすれば、自分がどこに立っていて、どこに立っていないのか分かるはずだ。さて、これは自動的に起こるプロセスじゃなかった。私が未だ漠然としていた時、シカゴでグリゴリー゠ペトロヴィチ゠マキシーモフと会ったんだ。彼を知ってる?
ダグ:もちろん。
サム:そして、彼と話し始めた。彼に無難なアナキズムの戯言を話し始めると、彼は私を見て「おやおや、君は酷くお粗末な教育を受けてきたんだね」と言った。「君は自分が何を話しているのか分かってないだろ。今君が話しているのはアナキズムにも、現存する勢力としてのアナキズム運動にも、全く関係ない。君はニューヨークのバカどもに(彼は『洗脳』に相当する言葉を使っていた)されているようだね。」
ダグ:それって、中西部の多くの人がニューヨーカーに対してよく見せる態度ですよ!
サム:ああ、全くそうだ。マキシーモフは私をひどく叱りつけて、彼の庇護の下に置いた。読書と数多くの議論によって、私の考えを明確にする手助けをしてくれたんだ。
ダグ:20年代の事ですか?
サム:そうとも。1923年~1924年だ。大昔だね。彼が話したこと全てに同意したわけでは決してないけれども、いわゆる正しい方向性を手に入れたんだ。だから、私と話すなら、君は自分がどんな種類のアナキストなのかハッキリさせなきゃならん。
ダグ:私は、知的にも、社会運動という点でも、歴史的に重要な伝統はアナルコ‐コミュニズムとリバータリアン社会主義だと思っています。
サム:私のアナキズムは組織的アナキズムだ。一部はプルードン、一部はクロポトキン、一部はバクーニン、一部はアンセルモ゠ロレンソだ。私にとって、アナキズムは個人的行動規範だけでなく、民衆の運動だ。私は社会運動としてのアナキズムに関心がある。宗教的信念だとかそれに類するようなものじゃない。だから、君がそうしたいなら、私のことをセクト主義だと見なすしかないね。私はアナルコ‐コミュニストで、アナルコ‐サンジカリストで、アナルコ‐個人主義‐多元論者なんだ!これら全てが私の社会的アナキズムに繋がっているからね。私は厳格なアナルコ‐コミュニストじゃないし、厳格なサンジカリストでもない。社会的文脈における個人の重要性を認める社会的アナキストだ。
私は、クロポトキンやバクーニン、その他の人達に同意する。アナキズムは社会主義を最も正確に表現していると思う。アナキズムという言葉さえ私は好きじゃない。そういう意味で私は異端だね。我を張ってよければ、私は「自由社会主義者」と自称するだろうね。
もう一つ。アナキズムという言葉は比較的最近生まれた。それ以前のアナキスト達は自らをアナキストとは呼ばなかった。
ダグ:恐らく、権威主義的政党や「社会主義」を自称する国家資本主義政府の成立によって、言葉を区別して使用するようになったのでしょう。
サム:私はアナキズムを自由社会主義に等しいと思っている。社会主義なくしてアナキズムはあり得ない。私はシュティルナーの言う意味での個人主義者ではない。
ダグ:また、アナキストを自称する「レッセフェール」資本主義者によっても混乱がもたらされています。「アナキズム」は社会主義と同じぐらい多くの意味合いを持つようになっています。
サム:だからこそ私は、個人の集まりである組織は、自分達が何の組織なのかを明示する一連の根本原則を持つべきだと考えている。もう一つ、私は全てのアナキストが協力し合えるとは考えていない。利害が一致する特定の事柄については協力できるだろう。例えば、弾圧や刑務所に対する抗議・資金集め・抗議運動といったような。しかし、仕事の関係という意味では無理だ。根本的な考えが合わない人達が一緒に仕事をしようとしても、どのみち分裂してしまう。そして、自分達自身を混乱させ、さらに悪いことに、関心を持ってくれるかもしれない人達を混乱させる。だから、今よく言われているように、それぞれが自分のことをして、共通点がある時に集まるのがベストなんだ。私は自律性・多様性・人々が集まりたいときに集まることを信じている。
エステル:個人主義アナキストについて言いたいことがあります。彼等を理解するには、民衆が極度に抑圧された社会で生活していた時代に立ち戻らねばなりません。例えば、シュティルナーは、抑圧的社会が窒息させようとしていた個人のエゴを再認識させる存在でした。そうすれば、こうした個人の強調がどこから来るのか分かるでしょう。
ダグ:自分の魂の一部を取り戻すっていうようなことですか?
エステル:そうです。今いる立場から振り返って、軽々しく社会を判断することはできません。できる限り、当時の情況に身を置かねばならないのです。そうすれば、特定のことが生じる理由を説明してくれます。
サム:もう一つ、ハッキリさせておきたい。君が私に尋ねてはいないのは承知しているが、私が考えるアナキズムについて私の見解を伝えたいんだ。私はアナキストで、千年王国に満たない状態に落ち着くのも厭わない。そんなの絶対来ないからね。
ダグ:人は今日、食べなければならないんですよ。
サム:だいぶ前に記事を書いたんだが、君に読んであげよう。私が言いたいことをもっと上手く表現しているから。
私にとって、アナキズムはプロセスなんだ。
ダグ:私が今話したいのは、この国でそのプロセスが取ってきた具体的な形態についてです。例えば、どのような組織方法なのか、どんなタイプの教育・文化プログラムなのか、労働者の活動はどんなものなのかなど。
サム:そうだね、組織的な観点から、自分の信条だと考えること(社会的アナキズム)を整理してみると、私達は2つの方向に導かれたんだ。第一に、私達の概念に反しているアナキズム諸傾向からイデオロギー的に自分達を区別するようになった。
ダグ:どうやったんですか?
サム:単に、独自のグループを結成しただけさ。そして、無政府共産主義グループと称して、『ヴァンガード(前衛)』という新聞、雑誌を出したんだ。1920年代後半と1930年代で最良の新聞の一つだったよ。
ダグ:どのぐらいの期間、その新聞を出していたのですか?
サム:8年かそこらだ。グリーンウッド゠リプリンツで見つけられるよ。でも、その前に、私達は他のことにも積極的だった。「自由の友」などのグループもやっていたけど、全て同じ路線だった。第一に、私達は自分達を無政府共産主義グループと見なしていた。第二に、私達にはアナルコ‐サンジカリズムとアナルコ‐コミュニズムの対立はなかった。これらは同じ概念の2つの側面だから。そして、プロパガンダ新聞を発行した。さらに、私達はIWWに加盟した。私達の考えでは、IWWは私達の思想を受け入れてくれる可能性が最も高く、私達が考える労働運動のあるべき姿に、同じではないけれど、近いものだったからだ。私達はどこで働いていようとも、生産現場で、自分達の思想を前進させようと努めた。単に説くだけでなく、行動によってもね。
ダグ:当時はどんな仕事をしていたのですか?
サム:私はずっと住宅塗装工をしてきた。それが一つ。それから、私達は街頭会議を行った。連盟を組織した。
ダグ:NYCの連盟ですか?
サム:米国の。
ダグ:何という名前だったんですか?
サム:無政府共産主義連盟。1930年代初頭だったね。
ダグ:何人ぐらいが加盟していたのですか?
サム:そうだね、そんなに多くなかった。大きそうに聞こえるけど、それほど大きくはなかった。様々なグループや個人の繋がりがあったよ。
ダグ:エマ゠ゴールドマンも参加していたのですか?
サム:彼女とはいつも連絡を取り合っていたよ。エマについては後で話そう。で、私達は他のグループと討論した。トロツキスト・共産党員・社会主義者と議論したもんさ。彼等と議論して「君達は非現実的だ」とか「君達は全然社会主義者じゃない」なんて非難していたんだ。そうやって多くの人を教育した。次の反逆者の世代は私達から生まれたんだ。
ダグ:当時、チョムスキーとブクチンのような人達はNYC周辺にいたのですか?彼等は新世代の反逆者だったのですか?
サム:いや、彼等はこの伝統からは来ていないよ。ブクチンは多少なりとも共産党陣営から来たんだ。彼は共産党の反体制派で、私達の思想へと進化したんだ。私がその陣営にいたことはないね。
まぁ、こんな風にやっていたのさ。
ダグ:30年代当時は様々な小グループがあったのですか?
サム:そう、小さなグループが色々あったよ。
エステル:例えば、私の出身地クリーヴランドでは、誰もが共産党とロシア革命に興奮していました。ロシア文学を読み漁るという具合だったんです。そんな時にサムと会いました。私達は、彼等に読んでもらうためにアナキズムやリバータリアンの文献を出版しようとしました。でも、その時期の話題は全て中央集権化。いかに中央集権が「効率的か」というものでした。「中央集権化」と「効率性」が彼等の大きなキーワードだったんです。彼等にとって政府はアルファでありオメガでした。この点で私はクリーヴランドの共産党の友達とは違っていた。でも、私達はガリ版刷りの新聞を出して、学生グループに他の文献を読ませようとしたのです。
サム:私は、その時、アナキストとウォブリーズの講演ツアーにいたんだ。当時は誰も経費を払ってくれなかった。貨車ツアーもやったよ!そして、クリーヴランドに来て、ロシアについて共産党員と討論した。
エステル:討論のテーマは「ロシアは共産主義に向かっているのか?」でした。
サム:問題はこれだったんだよ。30年代、ニューディール政策だの何だのが展開していた時、私達はそれら全てに反対していた。私達の立場は、それらは社会を国家にしようとしているというものだった。私達は流行に乗るつもりはなかった。AFLだのCIOだのニューディールだの。それで、私達の新聞には必ず「階級戦争戦線について」という大きなコラムがあって、労働情況を分析していたんだよ。
ダグ:アナキストは組合の組織化に積極的だったんですか?
サム:突き詰めてみれば、私達は他のアナキストと労働者の組織化について多くの議論をしていたね。かなりの数のアナキストがニューディール政策に陶酔していたよ。そして、そいつらのアナキズムには、ご存じの通り、充分な根拠なんてなかった。クソ忌々しい自己中だったのさ。アナキズムの視点で出来事を解釈せずに、国家の成長を手助けしていたんだ。嘆かわしかったよ。
私達は大衆集会に参加して積極的に活動した。現実的な代案を提示しようとしたんだ。
ダグ:例えば?
サム:そうだね、ストライキの情況を考えてみよう。私達は、組合の官僚機構がストライキを調停したり、召集したりすることに反対だった。私達はいつも山猫ストをする一般労働者やそれに相当する人達の側にいて、官僚主義に反対していたんだ。
エステル:とは言え、全てのアナキストがそうだったわけじゃなかった。
サム:そうじゃなかった。私達のグループは反対していた。他のグループの話はしてないよ。で、私達はこんなことをたくさんした。官僚側が言う失業者組合も組織した。1930年代の救済期に、官僚達がやって来て、彼等を立ち退かせて、階下に移動させた。そこで私達がやって来て、彼等を再び元に戻したんだ。
ダグ:フライング゠スクワッド?
サム:あぁ。誰かが救済金の件で誤魔化されていようもんなら、私達が事務所を襲撃してやったんだ。私達が大騒ぎするから、奴等は私達を追い払うために何でもやったのさ。
エステル:私達は失業相談グループも作って、当局に対処する手助けをした。
サム:職場でピケも張って、労働時間の短縮を要求した。午後2時に仕事を辞めれば、失業者の仕事が増えるだろって言ったんだよ。こんな風なことをやっていたんだな。で、こういった路線の草の根運動を見つけては、支援していた。言い換えれば、反体制グループや孤独な人々、つまり誰からも手助けを得られなかった人達が私達のところに来て、私達は彼等を助けたのさ。ピケを張る手伝いとか、ビラを印刷するとかね。
エステル:レストランで給料をもらえなかった人がいたとするでしょ。その人が私達にその話をすると、私達はその店に行ってピケを張って、然るべき給料が払われるか見届けたのよ。
サム:こんなことを色々やってたってわけ。別にアナキストじゃなきゃ来るなっていうのでもなかったしね。他の人達がこうしたことをやろうとしていたら、いつでも私達は助けに行ったんだ。
エステル:雇用に対するストライキもやったわね。
サム:そう、あいつら、仕事を得たいなら金を払えって言ってたんだよ!だから、私達がそこに行ってピケを張って、皆にその店を使わないよう言って、何が起こっているのか知らせたんだ。余り上手く行かないこともあったけど、大切なのは、私達がいつもそこにいたってことだ。私達は人々の中で一目で分かる潮流だったんだ。雲の上のエリートじゃなかったのさ。
ダグ:過去40年全体でそのアイデンティティは、アナキズムが強力な社会勢力だった時代(20世紀初頭)から現代まで、アナキズムを何らかの形で引き継ぐ手助けをしたと思いますか?
サム:まぁ、残念ながら、ほら、これら全てには暗い面があるんだ。残念ながら、私達のグループはアナキストの仲間内で歯痛と同じように歓迎されたってわけだ。
ダグ:あなたのグループは『労働者の自由な声(Freie Arbeiter Stimme)』(訳註:イディッシュ語のアナキスト新聞)の人達と一緒に活動したんですか?
サム:ある程度まではね。でも、当時、彼等とは大喧嘩したよ。
ダグ:喧嘩したんだ、『前衛』グループが。
エステル:私達は当時青年グループだったの。彼等が若者をどう見るか知ってるでしょ。
サム:この国のアナキストの大半が、うだうだ言葉数の多いタイプだったんだよ、分かるだろ。ハッキリしないし、何言ってんだかわかんないし。彼等がアナキズム運動の大半だったんだ。私達は極小さなグループに過ぎなかったんだよ。
ダグ:あなたのグループにはロシア移民が多かったのですか?
サム:いや、いろんな人達がいたよ。
ダグ:あなたもロシア生まれですよね、サム?
サム:そうさ、でもロシア語は知らないよ。すごく小さな頃に来たからね。覚えてないんだ。
ダグ:1930年代から1940年代、NYCの民族グループはかなり分断していたのですか?
サム:まぁ、イエスでもありノーでもあるかな。ニューヨークでも他の場所でもそうだったけど、「セントロ゠リベルタリオ」(リバータリアン゠センター)と呼ばれるものがあったんだ。大きなホールを借りて、イタリア人・スペイン人・英語圏の人・ポルトガル人なんかが皆集まって、このホールを借りて、親睦したり寄付したりして維持していたんだ。ランチバーなんかもやっていて、ワインもあって…。
ダグ:そこで講座もやっていたんですか?
エステル:ウォブリーズはここで学校を開いていたんですよ。NYCにもあったし、ミネソタ州ダルースにもあったわね。
サム:ああ、いろんなグループがいろんなことをそこでしていたね。ユダヤ人は別なホールを持っていたな…特定のグループだけが中央のホールを利用して、他は独自のホールを持っていた。でも、いつも交流していたよ。あちこちウロウロして、お互いに影響し合っていたね。ユダヤ人は2番街にホールを持っていて、「ユダヤ人アナキスト文化センター」って呼ばれていた。
ダグ:今はもう全部なくなったんですか?
サム:もうほとんどない。
ダグ:そうしたことがあったのは何年頃なんですか、サム?
サム:1930年代だ。私の時代は20年代半ばから30年代さ。
ダグ:その時期には、アナキズム運動が著しく後退して、共産党運動が成長していました。何故だと思いますか?
サム:共産党運動は飛躍的に成長していたね。
ダグ:何故でしょう?
サム:ロシア革命のオーラがあったっていうのが1つかな。
エステル:あいつら、金も持っていたし。
サム:良い組織も持っていた。当時起こっていた中央集権化と国家主義への揺り戻しに話を戻さなきゃならないね。知っての通り、私達は凄く苦戦していたんだ。おまけにかなりバラバラだった。共通の行動計画に関する限り、本当に何の有機的繋がりもなかった。そして、言語グループも、そう、言語グループは死に絶えたんだ。移民は止められた。そして、彼等は非常にセクト主義的だった。
ダグ:言語グループがセクト主義だったという意味ですか?
サム:彼等はそう思っていなかったけど、実際はそうだった。
ダグ:彼等の間に実際の敵対関係があったのでしょうか?
サム:幾つかのイタリア人グループは本当に抗争していたね。トレスカのグループと、このグループと、あのグループと、といった具合に。
ダグ:抗争があったのは他の民族的アナキスト゠グループの間でですか、それとも、同じグループの中でですか?
サム:いや、同じグループの中、他のイタリア人とだ。イタリア人グループはさっき話したような独特なアナキズムを代表していた。ほら、とても道徳的で、組織を信じていなくて、会議の議長も信用しちゃいないってな具合だった。でも、いざ行動するとなると、不思議なほど一致していたんだ。
ダグ:そう、彼等は、行動するとなると、凄くまとまりますよね。
サム:まぁ、彼等の多くは田舎のカトリシズムを乗り越えられなかったんだと私は確信しているよ。彼等の激しさは別物だった。でも、良い人達だったよ。そして、スペイン人だ。当時は2種類のスペイン人グループがあったね。北米に住んでいて、ここでスペイン語を話す以外に何かしようとしていたグループ。そして、物理的にはここにいても未だスペインに住んでいるグループだ。
ダグ:こうした民族グループは皆、英語圏のグループと関わりを持っていたのですか?
サム:まぁね。実際どうだったか教えてあげるよ。奇妙に思うかもしれないけど、こうしたグループは私達に大きな連帯感を抱いていたんだ。民族グループはそれぞれ違っていたけれど、皆一つのことを望んでいた。英語を話すアナキスト゠グループを見たがっていたんだ。どんな違いがあっても、彼等は英語圏のグループを始めようとする人がいれば助けていたよ。この国に土着のアナキズム運動はない。私が関わってきた中で、米国に土着の、本当のアナキズム運動は一度もなかった。英語圏のグループを始める人達も何人かいた。彼等は外国語圏のグループに助けられていたんだ。
エステル:私が言いたかったのは、少し話が戻りますが、共産党運動の成長です。奇妙なことが起こっていると分かりました。何故って、以前は、米国の精神や思想では個人主義が強調されていたから。でも、1920年代と1930年代に変化が起きて、もはや個人主義に重点が置かれなくなった。党の方針や企業ポリシーに従わねばならなくなった。個人は「お前に何が分かる?」と感じるようにさせられた。何をすべきか教えるエリートがいるのだから、列に並んで行進した方がまし、というわけ。
サム:ほら、私達は実際、流れに逆らって泳いでいたんだ。流れは、私が「インチキ社会主義者」と呼んでいる連中の方に非常に強く流れていた。連中は金を持っていて、人もいた。知識人やなんかさ。私達のところには来ないで、奴等のところに行ったんだ。ようやくちょっと復活してきたのは最近になってからだ。
ダグ:何故こんなことが起こったと思いますか?
サム:そうだね…、第一に、共産党がナチスと一緒になったからだね。そして、ロシア革命の破綻が明らかになると、オーラが消え去ったんだが、それが浸透するには何年も掛ったんだよ。
エステル:官僚制の重圧が至る所に現れ始めたのよ。
サム:害悪が余りにもハッキリしていたので、社会主義運動が再評価されるようになったんだ。インチキ社会主義への反動から、私達の考えが受け入れられるようになった。こうした出来事で、受け入れられやすくなったんだ。知識人は前は共産党に行っていたけど、今は私達のところに来ている。
ダグ:ロシア革命の影響が薄れ、その経験の過ちが明らかになるまで40年も50年も掛ったようですが。
サム:その通り。一種のジェネレーションギャップだ。世界大戦・ファシズムの台頭・スペイン革命の裏切り・ハンガリー革命の鎮圧。な、これら全てが浸透していったんだ。そして、全体主義の解決策は社会問題の解決にならないと人々が分かるには、これら全てが必要だったんだ。あいつらがそれを克服するまで2世代掛ったけど、未だ克服していないね。
エステル:党・国家・指導者の『The Age of Belief(信念の時代)』ね…人々は目の前にある事実ではそれを認識しないのよ。
サム:人々は遂に、権威主義的共産党やなんかの思想は、スターリンやその他もろもろと一緒に破綻したという結論に達して、新しい方法を探し始めた。失望が訪れ、再評価が行われた。だからこそ、人々は他の思想を受け入れるようになり、アナキズムへの関心が再燃したんだ。そして、私達が社会問題に対する実行可能な代案を提起できる立場にいれば、この関心は大きくなり続けるだろう。言い換えれば、アナキズムを現代社会に、複雑な社会に適したものにしなければならないんだ。
ダグ:マレイ゠ブクチンはその方向で幾つか試みを行って、分権型テクノロジーなどについて語っていますね。
サム:彼とはとても仲が良いんだが、一つ言いたいことがある。私は豊かさ至上主義者じゃない。彼等は根底で、全世界の無限の進歩と豊かさを想定している。私が言いたいのは、社会主義の理想の実現が豊かさと潤沢さに依存しているのなら、私達は終わってるってことだ。近い将来にそんなことは起こらない。だから、社会主義やアナキズム(私にとっては同じ意味だ)の実現は、その要因には依存しない。人間の要因に依存する。だから、脱希少性(欲望充足)アナキズムなんて存在しない。脳味噌の希少性ならあるかもね。相互扶助の希少性もあるかもしれない。欠乏の状態で共に生きることを学べないのなら、私達は沈没している。基本的にさ、脱希少性と潤沢という考えは全部、権威主義マルクス主義なのよ。経済状況のために、あれもこれも色々しなきゃならないってわけ。
ダグ:確かに、「進歩」は必然じゃないですね。
サム:その通り。進歩は必然じゃない。必然は運命論に繋がり、運命論はアナキズムにとって致命的なんだ。
ダグ:スペイン革命は北米アナキズムの活性化に大きな影響を与えたんですか?
サム:確かに、革命そのものが起こっている間はね。私達はいろんなことを始めたよ。でも、共産党だ。あいつらが最前線にいたんだ。あいつら金も新聞も何でもかんでも持ってた。スペインの問題全部を独占しようとしてたんだ。私達はあいつらのリソースに勝てなかった。1930年代には奴等に太刀打ちできなかったのさ。奴等のプロパガンダに対抗して、革命について皆に知らせようとして、私達は「リバータリアン統一組織」を組織したんだ。信条が何であれ、関心ある全てのリバータリアンがスペインへの資金を集めるために一つの組織に参加した。で、私達は『スペイン革命』という新聞を出した。お金を集めてスペインに送って、プロパガンダを、たくさんのプロパガンダをした。
エステル:最前線に行った人たちもいたわよ。
ダグ:ここからスペインに行ったアナキストは国際旅団で戦ったんですか?
サム:ええと、ここからスペインに行ったスペイン人アナキストは、どの旅団にも入らなかったね。バルセロナに行った、それだけだ。ウォブリーズのアナキストもいたね。彼等はリンカーン旅団やデブス旅団に入ったよ。共産党が彼等を殺したんだ。
ダグ:スペインでの裏切り行為は今ではかなり立証されています。米国の共産党やアナキストにも同じような問題があったのですか?その関係はどういうものでしたか?彼等があなた方の活動を妨害しようとしてきたことがありますか?
サム:そうそう。あいつらは会議を襲撃して、会議をぶち壊そうとしていたよ。議論じゃなく、物理的な妨害だった。昔はよく喧嘩したものだよ。鉛のパイプを『デイリー゠ワーカー』紙で巻いて、奴等をやっつけたものさ。
エステル:そうするしかなかったのよ。会議を止めさせようとしていたんだから。
サム:そう、全面対決をしたんだ。奴等の正体を暴いてやったのさ。彼に「北米委員会」について聞かせてあげなよ。
エステル:分かったわ。私達は当時ニュージャージー州ステルトンに住んでいた。長男はそこのフェレル゠スクールに通っていた。だから、全てがその学校を中心に動いていたの。それで、サムが講演にやって来た時、親達は私達に、子供達が共産党員になってしまうと文句を言ってきた。だから私達は『Looking Forward(展望)』という文書を発行して、全部アナキストの青年達に書いてもらった。詩を書いた人もいれば、学校について書いた人もいれば、もちろんスペイン革命中だったのでスペインの問題も書かれていた。当時、共産党は、スペイン革命がいかに自分達の革命なのかとか、救急車を手に入れる資金をどうやって集めたかとか、その救急車でスペインに戦いに行った共産党の仲間の一人の命が助かったとか、いつもそうだけど、ありとあらゆるプロパガンダを言っていた。そして、彼等には北米委員会があった。これは共産党による資金集めの委員会だったはずで、サッコ‐ヴァンゼッティ事件でやったように、スペインのためにお金を集めたの。多くのお金を集めたんだけど、お金がどのぐらい集まり・米国内でどのぐらい使われ・資金集めの大義のためにどのぐらい使われたか報告する段になって、大きなスキャンダルになった。そう、何が起こったかと言うと、ファシストでも北米委員会でも、お金の大半は米国に残っていて、スペインにはほとんど届かなかったのよ。
ダグ:ファシストも当時、スペインのために米国でお金を集めていたのですか?
エステル:ええ、あらゆる組織がスペインのためにお金を集めていたわ。北米委員会については、この事実を確認できる。『ニューヨーク゠タイムズ』に報告書が載っているから、調べてみるといいわよ。私達はこのことを公表したの。あいつ等は私達に威張り散らしていたんだけど、若者達が戻ってきた。最前線で戦ったウォブリーズとアナキストが戻ってきて、共産党がどんな策略をしていたか話してくれた。飲み水さえも利用していたのよ!もちろん、武器も。あらゆるトリックを使っていた。当時ロシアで行われていたスターリニストによる粛正の秘密警察機構全てがスペインに引き継がれていたのね。
ダグ:アナキストとトロツキストの関係はどうだったんですか?
サム:宿敵だよ。
ダグ:アナキストとトロツキストは共闘していたときもありましたよね、スペインもそうですが…。
サム:えっと、POUMのこと?
ダグ:ええ。この国ではその関係が影響しなかったのですか?
エステル:そうね、それほどでも。POUMは本物のトロツキスト゠グループではなく、共産党がトロツキストという烙印を押した反体制派グループだった。そして、彼等がCNTに協力したのは、言ってみれば、CNTが彼等を保護していたようなものだったからね。
サム:そうだ。CNTがいなけりゃ、あいつらは10分と持たなかっただろうよ。POUMを始めたのは2人のアナキストだ。アンドレス゠ニンとホアキン゠マウリン。2人ともCNTのメンバーで、ロシア革命による高揚感の犠牲者だった。ニンとマウリンはCNTを代表してモスクワに行き、結局、共産党員になった。だが、彼等は正規の共産党とは上手くやっていけず、分派グループを結成した。それがPOUMだったんだ。そして、ある時期以降、アナキストとPOUMは協働したんだが、それも多くの人が思っているようなものじゃなかった。意見の相違がとても根深かったんだ。
これを見てみなよ。1925年にシカゴで「自由社会グループ」と一緒に撮った写真だ。(写真には、ルドルフ゠ロッカー・ミリー゠ロッカー・マクシーモフ・サム゠ドルゴフが写っていて、皆恥ずかしそうに笑っている。)
エステル:何年も何年も、ここで公開フォーラムをやっていたわ。
サム:そう、学校を運営して、フォーラムを開いていたね。
ダグ:その学校について詳しく教えてください。どこにあったのですか?
サム:ニューヨークだ。
エステル:フリースクールみたいだったわね。演説方法やジャーナリズムの講座もあった。ボランティアで時間を割いてくれる専門家も何人かいたわ。
ダグ:フェレル゠スクールはどうだったんですか?
サム:それはニュージャージー州ステルトンにあった。ブランズウィックの近くだ。私が思うに、最も過大評価されたもののひとつだ。フジツボのように神話がへばりついていたんだ。
ダグ:息子さんはそこに行っていたんですよね?
サム:ああ、だが、それがどうした?教えてあげよう。ここだけの話だが、あそこにゃぁ何の価値もないんだ。あそこは惨めな大失敗だった。たまに育てるキャベツ以外には、何も生産しなかった。
エステル:まぁ、あなたちょっと極端すぎるわよ。
サム:分かってるよ、たまには大げさなことも言うさ。
ダグ:学校はどのぐらい続いたのですか?
サム:おっとそうだな、1920年代ぐらいから続いていて、第二次世界大戦後すぐに終わったと思う。
エステル:ほら、私達はその終わりの方で関わったのよ。その時には衰退していたわ。それで酷い目にあったの。
ダグ:第二次世界大戦に対するアナキストの態度はどのようなものだったんですか?
サム:あぁ、大きな論争があったよ。「我々は戦争に反対だ、ピリオド。知ったこっちゃねぇ、これは帝国主義戦争なんだ」というアナキストがいた。一方、マキシーモフとロッカーなんかのように、第一次世界大戦には断固として反対して投獄されたけれども、第二次世界大戦ではナチスを倒すべきだと感じていたアナキストもいた。私もその一人だった。これがアナキズムへの反逆になるとしても、全然構わない、ってな具合だった。実際、私が一番恐れていたのは、あいつらがナチスと和解して協力することだったんだ、分かるだろ。
ただ、私達が取っていた立場はこうだった。戦争中にいかなる賃金凍結もさせない・戦争で儲けるな・金持ちどももみんな戦争に行け。
エステル:私達はどこであろうとファシズムと闘ったの。米国も含めてね。
ダグ:ファシズムとの戦いはどのような形を取ったのですか?
エステル:そうね、必要に応じてストライキをしたし、戦争が続いているかどうかは関係なかったわ。
サム:私達は戦争を理由に階級闘争と国家に対する闘争を止めなかった。それが私達の立場だったのさ。プロパガンダを続けて、旗も掲げず、階級闘争を中断しなかった。戦闘的であり続けただけでなく、ヒトラーも排除したいと思っていた。
アナキストの9割ぐらいが戦争に賛成だった。多くの留保を付けていたり、程度の差があったりしたがね。この時に市民的自由の撤廃はそれほどなかったけど、第一次世界大戦の時は耐えられないほどだったよ。
ダグ:アナキズム運動の中で、反ユダヤ主義が一つの要素になったことはありますか?
サム:一度もないね。
エステル:欧州では多少あったけど、ここではないですよ。
ダグ:アナキズムとフェミニズムの関係はどうですか?アナキストは避妊情報の拡散に関わっていたのですか?
エステル:そうそう、私達はその先駆者でした。エマ゠ゴールドマンはその活動に積極的に関わっていて、そのために投獄されました。ただ、言っておきたいのですが、避妊の問題について、私達はマルサス的な視点から考えていたのではありません。人間的な問題に関心がありました。女性は孵卵器ではないのです。
ダグ:アナキズム運動は女性と女性のイニシアティヴに対してとてもオープンでしたか?
エステル:うーん、当時、女性にとってどんな時代だったか、あなたには想像もつかないでしょうね。とても保守的な「良い娘」じゃなかったら、常軌を逸していると思われてしまう。社会の女性の立場はとても不安定だった。
ダグ:その点で、エマ゠ゴールドマンは明らかに常軌を逸していました。彼女のライフスタイルは、アナキスト女性の中でもある種例外だったと言えるのでしょうか?
エステル:そうね、これに立ち向かうには、例外的でなければならなかった。彼女は「神経症」だって言った人がいるわ。まぁ、彼女は神経症だったでしょうね。こうした自分の中の炎に火を付けるためには、甘くて「普通」で受け身ではダメなの。本当に大きな炎が必要なの!現代の女性達は、当時の女性がどうだったのか理解していない。いつも監督されていた。妊娠すると、あちこち見てはいけないことになっていた。例えば、馬を見たら子供が馬として産まれてくるなんて思われていたから。恐怖と迷信の下で暮らしていた。若い女性達は果てしない恐怖の中にいた。くしゃみをしたら左耳を引っ張れ、といった具合に。こうした恐怖全てに取り囲まれて暮らすことを想像してみて。もちろん、一部の女の子達は違っていたわ。
そして、こうした障壁を打ち破るために組合運動が実際に何をしたのか、誰も気付いていない。組合で協働する。そして、ユダヤ人女性は、イタリアやギリシャなど地中海諸国から来た女性達と比べてとても自由だった。そして、組合での活動は、この種の奴隷制から女性を解放するためにとても大きな役割を果たしたんです。
ダグ:あなたは組合の組織化によく関わっていたのですか?
エステル:いいえ。私はプロパガンダの方に関わっていました。でも、当時、大恐慌の間、私達の家は組合の集会所として頻繁に使われていたわね。
ダグ:当時、代替経済機構を作ろうとする取り組みはあったんですか?例えば、今だと食料協同組合なんかがありますよね。
エステル:ありましたよ。スペイン人アナキスト達はいつもアパートを共同で借りていました。広いアパートを借りて、そこで共同生活をしていた。食事などについても様々な取り決めをしていた。カリフォルニアにいる高齢のユダヤ人アナキスト達は、若い頃に知り合って、老後のために協同組合を作り、一緒に寝泊まりして、お互いに支え合えるようにしています。彼等はとても年を取っていますが、今でもお互いの居場所を作っていますね。こういったことがたくさんあった。自助がたくさんあった。例えば、保育所。保育所は政府が始めたと思われがちだけど、でも、始めたのは労働者だった。覚えているわ。私が入院していた時、私達は労働者が支援する保育所に子供達を預けたの。政府の資金なんて一切なかったのよ。私達は、必要に迫られて、こうした自助組織を数多く作っていた。ここの保育所にいた女性は、エマ゠ゴールドマンの友達だったわ。
ダグ:エマがここにいた時、あなた方はニューヨーク近くにいたんですか?
エステル:一度だけ彼女に会ったことがある。彼女が欧州から戻って来た時で、その時はかなり高齢だった。一度、彼女の講演を聞いたことがあるんだけど、力強い声で、とても明快だった。当時はマイクなんてなかった。彼女の機知に富んだ応答、講演後の受け答えは素晴らしかったわ。
でも、彼女を個人的に知っている女性達の多くは、彼女を好きじゃなかった。何度も何度も耳にしたわ。彼女は、自分より能力の低い人達に我慢ならなかったみたいだったし、後年は穏やかになったとはいえ、初期の著作の幾つかは、平均的な既婚女性が読むととても不快な思いをするだろうってよく分かるわ。
ダグ:アナキストが保育所を持っていたって言いましたね。自助の医療サービスも組織していたのですか?
エステル:彼等は以前、社会的に重要な、ほら、社会的な思想も含んだ演劇をたくさん上演していたわ。例えば、『前衛』周辺にいた劇団は、ここNYCでのユダヤ人プロレタリアの生活を扱ったユダヤ人の演劇を翻訳していた。彼等の演劇の1つを覚えているわ。病気なのに仕事に行った労働者の話。仕事中に病気になって、彼はずっと自分の仕事も何もかも失うのではないかと恐れていたという内容で、これはとても効果的だったのよ。
ダグ:面白そうですね。さて、労働についてもう少し話して、インタビューを終わりにしましょう。アナキストはどのような職業を特に得意としていたのですか?
サム:ユダヤ人の間では、針仕事がほとんどだったね。イタリア人は建設労働者が多かった。葉巻職人もとてもアナキズム的だったよ。ロシア人だと家屋解体屋がかなりいたね。家屋解体業組合は、以前はロシア人アナキストが支配的だったんだ。第一次世界大戦の後から1920年代の話だけど。スペイン人はかなりの数の船乗りがいたし、炭鉱や製鉄所で働いていた人達も多かったね。
ダグ:アナキストはアメリカ炭鉱夫組合(UMW)やルイスと上手くやっていけたのですか?
サム:まぁ、アナキストの大半はルイスの機構に反対だったよ。アナキストの鉱山労働者の大半は外国人だった。スペイン人・イタリア人・ボヘミア人。とても優れた闘士達だった。
ダグ:IWWは1930年代と1940年代の労働争議に大きな影響を与えたのでしょうか?
サム:1930年代には、中西部とその周辺の金属機械産業に大きな影響を与えていたね。ある程度まで、海運業にも影響力を持っていた。コロラドの鉱山では力を発揮していたよ。
ダグ:IWWはどの程度アナキズム的だったのですか?
サム:IWWは実際にはアナルコ‐サンジカリスト組織じゃない。いつもそのように誤解されているけど。特殊な組織ではあるけれども、本当の意味でアナルコ‐サンジカリストじゃない。発展だのなんだのする中で、様々な行動様式を発展させ、自発性をある程度まで重視するようになって、アナルコ‐サンジカリズムの考えに似てきたんだ。この過程は、アナルコ‐サンジカリズム゠イデオロギーに活力がある証拠だ。彼等は自身の経験を通じてアナルコ‐サンジカリズムに進化したんだ。しかし、非常に限られた程度しか近づけていない。だから、ウォブリーズはアナキストのプロパガンダや理論に大きな影響を受けたわけではなく、むしろ、独自にこの思想の一部を発展させたんだよ。
ダグ:あなたは、サム゠ウィナーという別名で労働運動の記事をたくさん書いていましたね。どこで発表できたんですか?
サム:そうだな、私は様々な新聞にたくさん記事を書いたよ。『Road to Freedom(自由への道)』や『前衛』、小さな新聞の『Friends of Freedom(自由の友)』、『Why(何故)』という新聞、しばらくの間は『The Resistance(抵抗)』にもね。さらに、IWWの新聞『The Industrial Worker(産業労働者)』にも多くの記事を書いた。彼等のためにたくさんの記事を書いたね。『Ethics of American Unionism(米国労働組合主義の倫理)』というIWWのパンフレットも書いたな(訳註:Ethics and American Unionismの誤りだと思われる。パンフレットのPDFを参照)。
ダグ:別名を使ったのには何か理由があったのですか?
サム:誰かがその名を私に付けたんだ。若い時、私達は「雄牛のように大声で喚いて」いた年配の同志1人か2人と関わりがあったんだ、分かるだろ。彼等は、誰であれ自分の名前を名乗るべきではないと考えていたってわけ。その1人が私に名前を付けたんだけど、よくあるユダヤ人の名前だったからたまたまウィナーという名前になったんだ。まぁ、何とも思わなかったんだけど、その時にこの忌々しい名前が定着したのさ。でも、バクーニンの本を書いていた時に解放された。編集者がドルゴフという名前を使った方が良いって言ったんだ。ロシア名だしね。だから、私の本名が載った瞬間に、終わったんだ。サム゠ウェイナーはもういないのさ。
ダグ:では、サム、20世紀初頭のアナキストの衰退に影響したと思われる主な要因をまとめてもらえますか?
サム:そう、私は一般に2つの要因で衰退したと思う。一つは、ロシア革命の影響だ。1920年代にはまだ本格的に展開する前だったから、人々には何が実際に起こっていたのか分からなかった。ロシア革命の高揚感だ。第二の理由は、アナキズム運動が、社会生活に十全に参加できず、大衆運動に、本物の民衆運動になれなかったことだ。