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明治の教誨師・田中一雄の死刑囚記録

「死刑すべからく廃すべし・114人の死刑囚の記録を残した明治の教誨師・田中一雄」・田中伸尚著・平凡社2023年4月発行

著者は1941年生まれ、朝日新聞記者を経てノンフィクション作家。「ドキュメント憲法を獲得する人びと」等多くの著書を有する。

本書は、大逆事件再審請求主任弁護士・森長栄三郎の裁判資料を所蔵する法政大学ボアソナード記念現代法研究所森長文庫で、著者が見つけた「故田中一雄手記・死刑囚の記録」のノンフィクションである。

故田中一雄手記は、明治33年から明治45年まで12年間、担当死刑囚114人の記録。同じ内容の手記が「故田中一雄手記・刑死者の臨終心状」として矯正図書館にも存在する。

手記を残した田中一雄とは何者か?詳しい経歴は不明。元会津藩士で戊辰戦争を経験、明治23年から22年間、警視庁東京監獄で200人余りの死刑囚の教誨師を務めた浄土真宗の僧侶である。

矯正図書館にある田中一雄手記「臨終心状」は、田中自身が死去する直前に、北海道樺戸監獄・教誨師で退職後、東京に戻り、出獄人保護所を開設した原胤昭氏へ、自らの手記を預け、原氏が保存していた。

原氏は江戸奉行所与力の家に生まれ、幕末、13歳で与力50人中の一人である番方与力を務めた。後年、出獄人保護事業に注力し、「更生保護の父」と呼ばれた。

田中一雄は明治時代の死刑制度を回避できない状況下で、教誨師として死刑囚に「新しい生」の存在を求め、真摯に死刑囚に寄り添った人物である。

手記に日本で初の外国人死刑囚ロバート・ミラーの記載がある。彼はNY州出身の船乗り、明治32年7月、横浜の酒場で経営者女性の心変わりを怒り、女性を含め3人を殺害。翌年1月、絞首刑が執行された。

手記に「稲妻強盗」坂本啓次郎の記載がある。彼は明治28年、強盗傷害で入獄中の樺戸集治監を脱獄、関東一円で30件の殺人強盗を繰り返す。逃げ足の速さから「稲妻強盗」と呼ばれた。

明治31年5月、茨城県内農家に侵入し、農家の妻を斬り殺し、その夫、使用人に傷を負わせて、金品を奪った。明治33年2月、東京高等控訴院で死刑確定。判決から僅か8日後、死刑が執行された。34歳だった。

彼の辞世の句「悔ゆるとも罪の報ひは免れねば、悪しきな為しそ、後の世の人」と後世の人に忠告を残す。墓は四谷三丁目の長善寺にある。長善寺住職が東京監獄で説教をした際に、田中一雄から墓の依頼を受けた。

当時は「人を殺せば報いとして死をもって償う」感情意識と密行主義。現代のように国家の名で合法的に人を殺す死刑の本質を問うことはない。

明治31年~明治40年まで10年間で死刑執行数は328人。1年あたり平均32人の死刑が執行された。判決から死刑執行まで半年程度の短さである。

そんな時代に田中一雄は、「仏陀の大慈大悲を教える者が黙して残酷なる死刑を見るのは忍ぶ能わずなり」と言う。

「死刑はすべからく廃すべし、否、廃すべからず。廃すべからずは、社会に害毒流すの大なるものなればなり」とも言う。つまり拘禁すれば社会に害毒はないのだ。

従って、監獄の規律に従順な者に死刑を執行する必要はない。過ちを認めない者でも、じっくり教誨すれば悔い改め、生き直すことができると主張する。

死刑囚に寄り添う田中一雄に衝撃の事件が発生する。明治43年5月の大逆事件である。

主犯の宮下太吉ほか、幸徳秋水、管野スガなど無政府主義者、社会主義者26人が起訴、24人に死刑、2人に有期刑の判決。翌日、死刑判決の24名のうち12名が無期刑に減刑、12名の死刑が確定した。

明治43年11月、逮捕から起訴までわずか1週間、でっち上げ、予断と推論で進められた事件である。刑法73条「天皇危害罪」は実行行為なくとも、計画予備のみでも死刑となる。

明治44年1月24日、幸徳秋水ほか11名が死刑執行、翌25日、唯一の女性死刑囚・菅野スガ(29歳)の死刑が執行された。死刑執行の立ち合いは田中一雄と沼波政憲の二人の教誨師であった。

田中一雄は、大逆事件死刑囚について、一切記録を残していない。「記したき事多くあるも、事秘密に属するを以って書くことを得ず。以って遺憾とす」と述べている。

大逆事件後、明治44年4月から6月まで7人の死刑囚の簡単な手記を最後に、教誨師の職を辞した。114人目最後の死刑囚執行記録は明治44年6月19日午前10時21分とある。

大逆事件が教誨師を辞する原因、契機となったのは明らかである。もう一人の次席教誨師・沼波政憲も、田中一雄辞職の2週間後に辞職している。

後に社会学者・市場学而郎が辞職した沼波氏から大逆事件刑死者の最期を聞き込み、「市場報告」として学会に発表した。

管野スガの獄中日記「死出の道艸」(みちくさと読む)に田中一雄と面談した記載がある。田中一雄も唯一管野スガのみ、人物評価と彼女の辞世の句を記録に残している。

管野スガ人物評は「性質怜悧にして剛腹なり」と。「冷静にして腹がすわっている」との意味であろう。

辞世の句は「残し行く我が二十とせの玉の緒を、百とせ後の君に捧げむ」(須賀子)
「刑死者の無念、怒りは100年後の世の人に期待するしかない」との思いの歌である。

管野スガの法名は「釋淳然」元々クリスチャンだが、田中一雄と同じ浄土真宗の仏式で葬られた。墓は渋谷区代々木の正春寺にある。

墓石の正面には辞世の句「くろがねの 窓にさしいる 日の影の 移るを守り けふも暮らしぬ」と刻まれ、裏には「革命の先駆者管野スガここにねむる」とある。

田中一雄は愚直な生き方をした人物。死刑囚に最後まで寄り添い、国家の手の中にある微動だにしない死刑と果敢に戦った。その意味で田中の手記は愚直な抵抗の精神の結晶である。


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