今年は銀行制度150年「日本近代銀行制度の成立史」
「日本近代銀行制度の成立史・両替商から為替会社、国立銀行設立まで」鹿野嘉昭著・東洋経済新報社2023年5月発行
著者は1954年生まれ、日本銀行入行、金融研究所調査役を経て、現在同志社大学経済学部教授。
2024年7月から新一万円札の顔は渋沢栄一になる。渋沢は「日本資本主義の父」と呼ばれ、第一国立銀行設立に関わり、「銀行の父」とも言われた。今年はその国立銀行設立から150年である。
本書は、副題の大坂の両替商(一種の銀行である)は明治維新と共に消滅した。代わりに明治2年に創設された為替会社も短期間で破綻した。
明治元年5月、福井藩・三岡八郎建議の「太政官札」は財政悪化から額面の4割まで暴落した。新政府は富国強兵・殖産興業のため、「近代的銀行制度」確立が急務だった。
本書は幕末から明治5年11月の国立銀行条例成立、明治9年の国立銀行条例改正までの日本の銀行制度の成り立ちを問う本である。
江戸時代の銀行は大坂で生まれた両替商。三井、鴻池の有力商人の「本両替」中心に200人程の両替商が存在した。その後、地方領国の発展とともにその地位は低下した。
両替商は、幕末の金銀相場の急騰混乱から、大坂の銀貨決済の「銀目(銀手形)」が廃止され、両替商は取り付け騒ぎに陥った。
両替商は明治維新で「為替会社」へ移行するも、不良債権増大で経営危機に陥った。近代銀行制度が求められる理由がここにあった。
新政府は大蔵官僚の伊藤博文を米国へ派遣する。伊藤は、南北戦争戦費の混乱期を解消した米国の国立銀行制度を学び、日本へ国立銀行導入を図る。
当時、大蔵官僚に薩摩藩出身の吉田清成が居た。吉田は欧米の銀行、保険会社勤務経験を買われ、大蔵省に出仕していた。彼は英国・イングランド銀行を手本とする「正金銀行」制度を主張した。
これが明治4年の「伊藤・吉田の銀行制度論争」と呼ばれた。対立の中心は「銀行券発行は紙幣兌換か?」「100%正貨(金貨)兌換とすべきか?」で
ある。前者が伊藤、後者が吉田の主張である。
伊藤博文案作成に渋沢栄一も参加した。最終的に大蔵大輔・井上馨の仲裁で伊藤案に決定した。伊藤案に大隈重信も賛同した。その理由は、明治政府の絶対的な金貨不足にあった。100%金貨交換を認めることは出来なかった。
その後、吉田は大蔵小輔に昇進、伊藤は大蔵小輔から工部大輔に昇格した。「大輔」とは次官クラス、「小輔」とは大輔の次席クラスである。
国立銀行設立は、大蔵省が許可に慎重なうえ、銀行券発行枠が資本金の6割までに制限、そのため収益性が低かった。更に為替会社の破たんで三井組、小野組など富豪が出資を躊躇、設立は第一国立銀行などたったの4行のみだった。
国立銀行は出資金の4割を金貨交換準備として保有義務があった。しかし資金不足から銀行券の金貨兌換申出が増加し、経営危機に陥った。
政府は明治9年、国立銀行条例を改正。廃藩置県の秩禄処分で、華族に発行した「金禄公債」の国立銀行資本金払込を容認、銀行券発行枠を8割まで拡大、金貨準備率を最低5%まで縮小する特例を認めた。
その結果、国立銀行の資金不足は解消、収益力も拡大して、国立銀行設立数は153行まで増加した。大規模な国立銀行は渋沢の「第一銀行」と華族金禄公債のみで設立された「東京十五国立銀行」である。
大規模国立銀行の下に、多数の零細国立銀行がピラミッド型に形成された。国立銀行は政府兌換紙幣・銀行券発行機能を持ち、政府の強力な監督下に置かれた。この銀行制度は現代まで引き継がれている。
国立銀行制度は必ずしも成功だったとは言われない。それでも国立銀行制度が日本経済の成長を支えたということを伊藤博文の功績としたかったためだろう。長州主導の明治政府の意図が垣間見える。
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