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「蔦屋重三郎と田沼時代の謎」安藤優一郎著
「蔦屋重三郎と田沼時代の謎」安藤優一郎著・PHP新書2024年7月発行
著者は1965年生まれ、歴史学者、「JR東日本・大人の休日倶楽部」など生涯学習講座の講師を務める。江戸時代の多くの歴史本の著書がある。
本書は来年NHK大河ドラマの主人公蔦屋重三郎関連の書籍。彼は写楽を世に出し、権力にも屈せず、江戸の町人文化を育てたメディア王である。
重三郎が吉原大門前に書店耕書堂を開店して、吉原遊女のガイドブック「吉原細見」を販売したのは安永2年(1773年)24歳のときである。
その開店の6年前、明和4年(1767年)田沼意次は10代将軍徳川家治の側用人に昇進した。2年後、明和9年には老中をも兼務し、全権力が田沼意次に集中した。田沼全盛時代の到来である。
その50年前、8代将軍徳川吉宗は享保元年(1719年)から享保20年(1735年)にかけて享保の改革を実施し、幕府財政悪化の立て直しを図った。その内容は年貢徴収重税による立て直しで、江戸時代、最も多くの百姓一揆が発生した期間でもある。
その後も幕財政悪化は改善せず、田沼時代にはさらなる重税強化が必要となった。田沼は農民から徴税は限界と見て、町人文化全盛期、商人からの運上金、株仲間独占の見返りの冥加金の課税を強化し、幕府財政の立て直しを図った。現在でいう消費税的流通税である。それだけ商人、町人の力が強くなっていた時期である。
10代将軍徳川家治が死去し、一橋家出身の徳川家斉が11代将軍になると、吉宗の孫、松平定信が老中首座に就任して、寛政の改革を実施する。その内容は質素倹約と文武奨励。しかしその実態は田沼時代からの町人からの税徴収強化の続行政治であった。
田沼末期の天明期は、天明の大飢饉、浅間山噴火など大災害が多発した時期だった。そのため天明期から寛政期に時代は移っても米価など物価上昇は続き、庶民の生活は苦しかった。
松平定信ら幕府トップは江戸区域内で米価高騰による米騒動が度々発生してため、この沈静化ため、田沼意次を悪者扱いにして、定信らの政治の正当性を訴えた。それが寛政の改革である。
その犠牲となったのが蔦屋重三郎らの町人出版メディアであり、洒落本、黄表紙作家の明誠堂喜三二、恋川春町、狂歌師の大田南畝らである。彼らは武士階級であるため、上から締め付けが厳しく、自殺や筆を折る。洒落本、黄表紙は禁止され、メディアから排除された。
重三郎は地本問屋(洒落本など柔らかな本を出版する)から書物問屋(国学など堅い本を出版する)の株仲間を取得し、伊勢松阪へ自ら出かけて、本居宣長に面談交渉して、宣長の「出雲国の造神寿講釈」を寛政8年に江戸で販売することに成功する。重三郎死去の1年前である。
松平定信も将軍家斉との不仲が原因で失脚し、寛政5年(1793年)老中を退任する。その4年後、寛政9年、蔦屋重三郎も48歳でその生涯を終える。死因は脚気。死の直前の言葉。「自分の人生は終ったが、今だ終わりの拍子木が鳴らない。遅いではないか」
時代が混乱すると、権力はメディアを弾圧し、一般市民が力をつけるのを抑え込む習性がある。それは時代が変わった現在でも、権力者の思考、行動形態は昔と変わらない。