芸者から見た維新の志士
「維新侠艶録(いしんきょうえんろく)」井筒月翁著・中公文庫2007年11月発行
本書初刊は昭和3年12月、萬里閣書房から発行された本の文庫本化である。
著者の井筒月翁の経歴は明らかではないが、著者自身が京都祇園新地の芸者中西君尾、大阪南地宮田屋の芸者お雄、下関遊郭の芸者津山太夫、横浜富貴楼の芸者お倉からの話を聞き書きしたものである。それなりの脚色もあり、どこまで本当か判然としない。
高杉晋作は下関(当時は馬関と言った)の廓芸者・おそのと相思相愛の仲になった。高杉は24歳、おそのは5歳下の19歳。高杉は絶えず幕吏に追われ、変装して西、東へと隠れ歩いた。その間、おそのは常に短刀を懐中に入れ、高杉の身の回りを警戒していたと言う。
高杉が肺病で死去したのは28歳、おそのは23歳、連れ添ったのは4年間あまりである。高杉死後は長州吉田村に引き込み、髪を下ろし梅匠尼と名乗り、明治42年8月、出家したまま、死去した。
長州藩維新の志士は多くが当時下関で知り合った芸者を妻とした。伊藤博文の妻・梅子などがいる。井上馨は馬関の芸者力松を落籍した。しかし力松との世帯は3か月で終わり、その後、お照という舞妓を男装させ、小姓侍に変装、いつも若侍として連れていた。
後に参議、枢密院議長、内務大臣となった副島種臣は若い頃、女嫌いで有名だった。その副島が江戸築地の遊郭梁山泊の美人芸者小浜を見初めた。
その頃の副島は着るものに無頓着、風呂にも入らず、汚くて人が避けて歩くほどだった。小浜も一度は断ろうとしたが副島の真面目さに負けて、遊郭の女将に副島を小浜の家に一週間預かりたいと申し出た。
小浜は居候の副島に命令して、湯屋で毎日、三助に垢を落とさせ、床屋で散髪、日本橋の大丸呉服店で着物を仕立て着させた。馬子にも衣装どころか、根が立派な美男子のため、隆々とした男丈夫に変身した。
小浜は今から井上馨、伊藤博文に挨拶に行くから、ついて来なさいと言われる。井上、伊藤は副島を見ても別人、「お前が副島か?」と驚いた。一週間後、井上らが祝宴を開き、二人の契りを結んだと言う。
久坂玄瑞は小柄な男、いつも頭は坊主だった。なかなか粋な男で詩歌にも通じていた。中西君尾が記憶している都都逸を下記に並べる。
「咲いて牡丹と言われるよりも、散りて桜と言われたい」
立田川無理に渡れば紅葉が散るし、渡らにゃ聞こえぬ鹿の声」
「鴨川の浅き心と人に見せ、夜は千鳥で鳴きあかす」
久坂は京都島原角屋の芸者(本名は竹内辰)お辰(辰路とも言う)と馴染だった。お辰と一緒に外出のとき、久坂と桂小五郎が路上の易者に占ってもらった。桂はさほど悪くはないが、久坂は不時の死をすると出た。「どうせ国のため死ぬ。早いも遅いもない」と笑った。
中西君尾の話によると、西郷隆盛は太った、肥えた女が好きで、ゾウのように肥満した女性を愛した。京都祇園の奈良屋のお虎という仲居を可愛がった。
西郷が倒幕のため、京都を出発するときに、お虎は別れを惜しんで、京都から大津まで駕籠に乗って見送った。西郷は「戦の門出に虎が送ってくるちゅうは縁起がよか」と上機嫌で、褒美に30両を出したという。
お虎は西南戦争で西郷が死んだと聞いて、ひどく悲しみ、それから3年後にお虎も死んだ。君尾は「女で西郷さんからお金を貰ったのはお虎さんだけでしょう」と言う。
西郷は酒席では、無邪気に遊ぶだけ。偉いのか、馬鹿なのか得体のわからない人だった。酒を飲んでも大声を出すのでもなく、芸者と遊ぶわけでもない。ただ静かに邪気なく遊ぶだけだった。
祇園の川端井末の女将のお末も豚のように太っており、西郷はお末を追っかけた。お末は逃げてばかりで、西郷も諦めて、相撲甚句を踊って帰って行った。
お末は後にあの西郷吉之助が偉い人と聞いて「へえ、あの人が・・」と驚いたと言う。大西郷の面目躍如たるものがある。
維新志士の私的な普通と変わらない素顔が見える。貴重な本である。