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しあわせ?ふざけんな

 自分の暮らしに不満や不自由がない状態や富、名声、絆、才能、美しさ、そういう類のものが有る状態がしあわせだ、と認識されがちだけど、きっとそうではなく、自分が望んでもないのに人生が置き土産にくれた悲しさ寂しさ不条理のすべて、をうっかり開けてしまったときに、それでもまだ自分自身に灯火をともせる心があることを、しあわせだというのだろう 

 ほしいものを手にしていないことが悔しいのであれば、絶対に自分が自分にこれを贈ろうと思えること、自分の才能や内面や外見に満足してないなら磨いてやろうと思えること、自分を惨めに感じさせる人や環境があるなら自分を遠く遠くまで逃避行に連れ去ってあげようと思うこと、思った瞬間に実行できるかどうかはどうでも良くて、ただ自分の涙を自分で拭けること、あるいは拭いてくれる人のもとまで自力で歩いていけること、絶対に自分はこのままじゃ終わらないぞと人生に復讐を誓うこと、滾る血をもっと煮えたぎらせるため、燃え盛る炎に焚べる薪を絶やさないこと、そして、それができるくらい自分に対して敬意を表することができることをしあわせだというのだろう

 結局それは希望を捨てないということで、自分と自分の人生を諦めないことなのだ

 だからわたしは他人のこと、敬意は抱いても崇拝はしない 崇拝は、自分よりもすごいと諦めることときっと同義だから

 だからわたしはしあわせじゃない人間がいると不快になる その口からは昔話や愚痴ばかりで未来の話も楽しい話も思想もなにも出てこないから

 だからわたしはしあわせじゃない人間を見ると悲しい わたしが心を何度も何度も割ってその破片で刻んできたしあわせをきっと彼らは軽んじるだろうから

 ふざけんな 闘いの勲章だ

 与えられたもののしあわせに気づけるようになるのは自分がそれを誰かに与えられるようになってからだ それまではいくら与えられても気づけやしない
 自分で勝ち得たものだけがおまえのしあわせになる 

 しあわせになることがこわいのはきっと、しあわせになったら今までの自分の苦痛と時間が無意味だったと気づいてしまうのを予感しているから

 しあわせになったら不幸だった頃よりも誰も自分を気にかけてくれなくなるとか 自分が空っぽな人間になるとでも 思っているからでしょう

 なによりも自分がしあわせではないこと、自分の人生の責任は自分であることを拒みたいから、誰かのせいにし続けて、自分が傷つかないようにしあわせな人間のこと、内心どこかで見下しているんだ


 「わたしはそういう運命だから受け入れるしかないの」「あなたは恵まれているから」「あの子は才能があるから」「あの人は運がいいから」
 確かにわたしは恵まれてる部分もあるけれど、それでもなるべくなにもないところから始めたいのはしあわせをさぼるどこかの誰かの言い訳にされたくないからだよ 

 そう思いながら、「どうせおれなんて…」と繰り返しぼやく彼や彼女の話に耳を傾ける 

 もしわたしが彼らとして生まれたなら、そんなふうに話をするのだろうか。

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