孤独と芸術 13
全ての人間に絶賛される作品がない理由―考察
どんなに優れた小説でも、映画でも、人間でさえも、万人に好かれるということはまずあり得ないだろう。自分にとってはドンピシャの好みの作品を、友人に勧めてみたら良さをさっぱりわかってもらえなかったという経験はないだろうか。また、成長するにつれて昔好きだったものが今は心に響かなくなったという経験を有する方も存ずると思われる。私はこれについて以下のように考察した。
全てのものが波動(であり粒子)であるとするなら、物質や信号と同じように意識にも周波数すなわちチャンネルがある。ラジオのチューニングを想像するとわかりやすいだろう。いくら波動が出ているとしても、この“チャンネル”が合わなければ無いも同然、砂嵐(ノイズ)しかキャッチされない。作品の良さ、つまり感動の要素は作品の製作者側の意識と鑑賞者側の意識のチャンネルが一致したときのみ伝わるのではないかと思う。
しかし、もし仮にこの理論が正しいとするならば「どんなものでも本質的には美を有する」ということになる。それには少々首を縦に振り難い。そして私がこれに結びつけたのは「多くの芸術家が精神を蝕まれている」ということである。
先ほどの意識の図を見てみると、普段我々が認知している範囲では、意識は「個体」として別々に存在しているように見えてしまう。しかし、実際は意識の奥底で私たちは繋がっている。私たち現代人が抱える闇(病み)の正体は、実は“誰とも完全には分かり合えない”、“誰にも自分を理解されない”という「孤独感」であり、それはもともと一つだった意識が分離された(と錯覚する)ために感じるものなのだと考えられる。そして我々人間は、その孤独感から救われたい為に他者と分かり合える瞬間を模索しているのではないかと私は考える。つまり、感動とは顕在意識で認知したものを潜在的に原意識のレベルで(他者と)共鳴することだと言えるのではないだろうか。感動を他者と分かち合えた歓びだと言い換えることもできる。
そして、その「原意識まで揺るがす何か(=美)」を物質世界に現すために、芸術家たちは顕在意識よりももっと奥の方まで潜り、原意識から美を引っ張り出して文学なり音楽なり美術なりといった形を与えているのではないだろうか。
2018年の冬、私がJPIC YOUTH主催のイベントで芸術家・宮島達男氏の講演会を訪れた際、一人の学生がこんな質問をしていた。
「AIがクリエイティブな職業を台頭することはないと思っていたのですが、最近ではAIが絵や音楽を製作したりしていて、芸術の分野でも我々人間が不利になってしまうのではないかと心配です。」
それに対して、宮島氏はこのように答えていた。
「実はね、AIが生まれる前からもそういう人間はいたのです。何が大衆に好まれるか、たくさん分析して似たような作品を作る人たちが。確かにその時代では売れていましたけど、そういう人たちの名前は今の時代には残っていません。AIも同じだと思います。人間が創り出した優れた芸術作品は、何かこう、腹の下の方にどしんと響くものがあるんですよ、上手く言葉にできないけど」
その話を聞いたとき、私はこのテーマに取り掛かったばかりだったのでまだ自分の考えさえも言葉にできていなかったが、今改めて振り返ると原意識の感覚にとても共通していると感じる(AIが意識を有するようになればまた話は変わるが)。