「政治がSFをはらむことの危険性」〜百田尚樹氏の「子宮摘出」発言について〜
百田尚樹氏の「子宮摘出」発言が炎上している。「(女性)は三十を超えたら子宮を摘出するくらいのことをしないと社会は変革できない」という発言だ。どう考えても女性蔑視であり、人権意識が欠落していることは言うまでもない。だが百田氏は、あくまで「小説家として、SF(仮定)の話をしたまで」と言う。しかし氏が出演したネット番組は政治番組であり、氏は国政政党の党首だ。そこでの発言を小説家という立ち位置に全振りするのは苦しいだろう。
だが本人は、小説家として仮定の話をしたという建前が、言い訳として通用していると思っている。よくもいけしゃあしゃあと、と思ってしまうが、頭ごなしに否定しまうことで、なにか大切なものを見逃してしまうことは往々にしてよくある。ここにキーワードがふたつある。「小説家」と「SF」だ。そのふたつを使って問いを立ててみよう。
「小説家ならいいのか?」「小説家でもダメなのか?」
「SFならいいのか?」「SFでもダメなのか?」
どうなんだろう。小説家ならいいのだとしたらなぜで、小説家でもダメなのだとしたらなぜだろう。SFならいいのだとしたらなぜで、SFでもダメなのだとしたらなぜだろう。
実際、小説であれ映画であれ、SFではおぞましくも絶望的な世界が描かれることがよくある。ディストピアというやつだ。ならば、百田氏が言うように、あくまでSFであればいいのだろうか。
いや、おそらくは違う。この問題を紐解くには「政治とSF」の関係性を考えなければならない。「SFが政治をはらむこと」と「政治がSFをはらむこと」の差異についてだ。
(ここで言うSFとは、百田氏がとっさの立て付けで「未来の架空の話」という意味合いとして使っているだけなので、実際は「仮定」や「フィクション」と置き換えてほとんど問題ないが、一応SFという言い方で統一したい。)
まずは「SFが政治をはらむこと」について考えてみたい。
SFでは驚くような差別や、想像もしたことのない虐殺も、ごくごく当たり前のように描かれる。「子宮を摘出する」という不条理すらありえる。表現の世界では、そうしたおぞましい未来を想像することは決して罪ではない。それを物語に変えることも罪ではない。その想像は、ある種の思考実験なのだ。だがその実験は、単におぞましいアイデア(設定)を開陳することにあるのではない。
もし、三十歳以上の女性が子宮を摘出しなければいけない世界を思考実験するのであれば、子宮を摘出しなければいけない社会とはどんな社会なのか、摘出させられる人間の痛みや絶望とはどんなものなのか、を作者は受け止めなければならない。そしてその不条理な社会をどうすれば打破できるのかについても、真剣に悩む必要があるだろう。そうした格闘こそが作品世界の訴える倫理となり、その架空の世界の政治形態と現代社会の政治とのギャップや関連性などに何かしらの価値を見出すとき、「SFが政治をはらむ」のである。
また表現は多くの場合、政治から独立している。(クールジャパンみたいな例もあるけれど。)表現者は基本的に政治から独立していることを担保として、政治権力に当事者性を持たない外部から、ある種の極端な仮定を社会に投影する。つまりおぞましくも絶望的な架空の未来とは、政治の当事者性と断絶しているからこそ表現できる、奔放な極論なのだ。だからこそ読者もそれを完全なフィクションとして安心して受け取ることができ、自由に感じたり、考えたりすることができる。
では、そのSFの想像力を政治の当事者が語ったとしたらどうだろう。百田氏は去る衆議院選挙に比例区で出馬したが、落選したため国会議員ではない。とはいえ3名の国会議員を擁する国政政党の党首である。つまり正確な意味での政治家ではないものの、国政政党の党首である以上、政治権力の当事者なのだ。
現実社会というリアリティの中で、国政政党の党首が「SFだから」と前置きして、「女性は18歳以上は大学に行かさない」「25歳を超えて独身の場合は生涯結婚できない法律にする」「三十を超えたら子宮を摘出する」という仮定を例示することは、フィクションの呑気さも絶対性もなく、恐怖以外のなにものでもない。「SF」と前置きしたとしても、たとえジョークであっても、その発言はただの過激なアイデアとして社会を脅迫してしまうのだ。
SF的発想は、誰にでもある。僕にもあなたにもある。だけどそのSF的発想を、ましてやグロテスクな未来を、たとえ末端でも政治権力の当事者が、「解決策の例え」として提示することは、現実社会を極論で扇動することに繋がってしまう。彼は党首でなくても政治活動家であり、これだけバッシングされていてもなお、氏のフォロワーは頑なに氏を理解を示し、擁護し、氏を避難するものを嘲罵している。これこそが「扇動」という現象であり、「政治がSFをはらむ」という危険性なのである。百田氏の発言の問題点はここに集約されている。
百田氏を「不謹慎だ」と怒ってみても、氏や氏のフォロワーから「仮定の話なんで」と言われてしまう。「仮定でも不謹慎だ」と詰め寄っても「小説家の想像なんで」と言われてしまう。だがそこで初めて「小説家の想像力なら許されるのか」という問いが生まれる。
結論、許される。だが、百田氏は小説家として発言しているわけではなく、小説世界を構築したわけでもない。現実社会において、現実社会と同じ地平に、単なるおぞましいアイデア(設定)を出現させただけだ。それは小説家の仕事として十全ではない。百田氏の「小説家として」という発言が言い訳であることは明白である。
もし百田氏がどうしてもそうした想像力を告白したいのなら最低限、国政政党の党首から降りなければならない。そして影響力の大きい小説家として語りたいなら、まずその不条理の痛みや絶望を想像することから始めなければならない。子宮を摘出させられる人たちへの想像力こそが、小説家の仕事である。女性の子宮を摘出する制度を設計するだけなら、それは小説内に登場する“いつか打ち倒されるべき為政者”の仕事なのである。
※氏は「私の発言は『あってはならないこと』と前置きした上でのものでしたが、表現が下品で、不快な気持ちにさせてしまったことは事実です。発言を撤回して謝罪いたします」と謝罪している。