ショスタコーヴィチ『交響曲第8番』、そしてコンドラシン〜1943年と2023年の合せ鏡〜
年内最終営業日。
開店と同時にかけたのはショスタコーヴィチの『交響曲第8番』。
キリル・コンドラシンが指揮するモスクワ・フィルハーモニ―管弦楽団、1967年4月11日の録音。
何故、このレコードをターンテーブルに乗せたかと言えば・・・。
この交響曲は1943年11月に初演された。
時は第二次大戦中、スターリングラードの攻防戦で多くの犠牲者を出しながらも、ナチス・ドイツに勝利したソビエト。
前作第7番『レニングラード』同様、当局からは“勝利の交響曲”が期待されていたにもかかわらず、ショスタコーヴィチが作り上げたのは、暗く重く辛辣な音で覆われた悲痛な、解決と勝利には向わない作品だった。
当時、彼は戦争の悲惨さを伝える報道映画や拷問や処刑、大虐殺、そして都市の破壊を伝えるニュースを見るにつけ、その現実の厳しさに向き合い、その結果としてこの問題作を完成させた。
当然、当局や作曲家同盟はこれを良しとせず批判し、演奏禁止という裁定を下した。
そんな背景を持つ第8番の交響曲のことを思っていたら、こんな妄想、推理が頭をよぎった。
「2023年現在、もしショスタコーヴィチがこの曲を発表したら、ロシアのプーチンは激怒して演奏禁止にするのではなかろうか・・・」と。
戦況がロシア有利なように伝えられ、ウクライナへの支援疲れが伝えられるようになったこの年末、80年前と現在が合せ鏡になっているように思えてならない。
指揮しているコンドラシンは、史上初の『ショスタコーヴィチ交響曲全集』の録音を託されたソ連を代表する指揮者だった。
しかしそんなコンドラシンも1978年にオランダに亡命する。
彼のどんな思いが亡命という行動に駆り立てたのか、本人の口から公式に語られることはなかった。
そしてコンドラシンは1981年3月7日、アムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団のコンサートを終えた後、心臓発作によってホテルで亡くなった。
享年67歳。
恐らく彼は音楽、そして芸術がイデオロギーによって雁字搦めにされたソビエトという国で、自らの音楽表現をすることに限界を感じたのだと思う。それほどまでに彼の音楽は広い視野に立ったユニバーサル・ミュージック、世界共通言語的な広さを持つに至ったのだ。
『交響曲第8番』は現在では、ショスタコーヴィチが高度な作曲技法を惜しみなくつぎ込んだ、戦争の悲惨さを伝える彼の代表作のひとつと評価されている。