G線上のアリア論-BACH音楽の普遍性(前編)パレストリーナからバッハへ
バッハの代表作である『G線上のアリア』はクラシックというジャンルを超えて、今なお多くの音楽家にインスピレーションを与え続けている。
『G線上のアリア』の魅力はどこにあるのか? 楽曲分析や歴史的背景を踏まえながら、近年の動向や21世紀の最新アレンジも含めて、この曲をできるだけ多角的に見ていきたい。
前編となる今回は《パレストリーナからバッハへ》と題して、主に分析や歴史をテーマに『G線上のアリア』の魅力を再検討する。
1.メロディ×4の旋律美
『G線上のアリア』の魅力は何と言っても旋律美だろう。
メインテーマを奏でるヴァイオリンのメロディが実に美しい。
ヴァイオリンだけではない。どのパートもそれぞれ独立した美メロを奏でている。
中世からバロックにかけて、作曲の基本原理は一言で言えば「旋律の重層化」であった。メロディに別のメロディを同時に掛け合わせ、立体的で豊かなサウンドを実現する。これが旋律の重層化である。
同時に奏される旋律を3つ、4つ、5つと増やしていっても破綻しない音楽、すなわち高度に重層化された旋律群がもたらす多次元的なサウンド、これこそが中世からルネサンス、バロックの時代の音楽の基本的なコンセプトであった。
左から右へと書き綴られていく文字と同じように、当時は音楽もヨコ(旋律)でとらえられていた。タテ(コード)の理念が普及し始めたのは少なくとも18世紀後半、バッハの子ないし孫世代と考えられている。(ちなみに、ちょうどそのころ、時期を同じくしてソナタ形式の原理が一般化するのも決して偶然ではない。)
バッハはこの曲で4つのパート、すなわち第一ヴァイオリン、第二ヴァイオリン、ヴィオラ、通奏低音(チェロやベース、チェンバロ等)それぞれに独立した旋律をあてがう。
第一ヴァイオリンが終始奏でる流麗なメロディだけでも十分に美しいが、それだけではなく、各メロディどうしがぶつかり、からみあうなかで(原理的には偶発的に、しかし実際には作曲者の意図するとおりに)発生する耳障りな音とその解消(すなわち、曲中の至る所に散りばめられた二度音程がもたらす絶妙の緊張&弛緩)が極上の癒しの音楽を可能にする。
しかし、そもそもなぜこの曲のメロディは総じて心地よいのか?
それはメロディライン自体が音階そのもので作られているからである。
冒頭のメインテーマも、第二ヴァイオリンやヴィオラが魅せるさりげない合いの手の旋律も、終盤に半音ずつ煽ってくるベースラインも、どれもこれもすべて旋律の基本骨格がそのまま音階になっているのである。
下降する音階と上昇する音階。
言ってしまえばこれらたった2つの素材を巧みに加工し、適切に配置構成[compose]する技術こそ作曲者[composer]の腕の見せ所なのである。
2.コンパクトに起承転結が編み込まれた構造美
さて、この曲の演奏時間の相場は、おおむね5分程度だろうか。短すぎず、長すぎず、まさにちょうどよい。
では、小節数は、どれくらいだろうか?
わずかに18である。たったの18小節でこの奥行き。もちろんこれには理由がある。
全体のつくり(楽節構造)は次のとおりである。(数字=小節数)
||【4+2】:|| ||:【4+2+4+2】:||
シンプルなものは、美しい。
かたちの美は誰の目にも明らかだろう。
前半の【4+2】を基礎単位として、それを拡大することで後半が紡ぎだされていく。
曲の内容を起承転結とみるならば、前半の【4+2】が起承に、後半の【4+2+4+2】が転結に相当するだろう。
曲中で最も緊張感が高まるのは、最後の「4」の部分、すなわち小節数でいうと第13-16小節目である。半音ずつ上行するベースの煽り、第一第二ヴァイオリンの応酬、そして本曲中での最高音(ド)への到達。
曲全体の7-8割(四分の三)過ぎあたりで最高潮を迎える音楽というのは極めてまとまりがよく、曲の長さに関わらず、聞いていて非常に満足感がある。(これは音楽に限らず、小説や映画、ドラマといった時間芸術全般にあてはまるテーゼだろう。(もちろん、出だしがクライマックスという構成をとるものや最後の最後で大どんでん返しといった構成をとるものもある。))
バッハは音楽の勢いを徐々に温めていき、そのまま自然な流れで頂点へといざなう。そこにムリやムダは一切ない。すべてが見事に、まさに万事、予定通り事が運ぶがごとくである。
3.バッハがルネサンスに見た美の極致あるいは究極の普遍性
平穏清澄にして豊かな旋律美と揺るぎない構造美を特徴とする『G線上のアリア』だが、しかして、バッハの脳裏にあったのは、おそらくはパレストリーナの音楽である。
まずは一度、聞いてみてほしい。どちらも3-4分程度の合唱曲である。映像的にも見ごたえのあるものになっている。
16世紀後半、ルネサンスの時代あるいは対抗宗教改革の時代のローマで活躍したジョヴァンニ・ピエルルイージ・ダ・パレストリーナ。彼の作品は21世紀の現代においても今なおカトリックの現役の典礼音楽である。
パレストリーナの音楽の特徴は、究極の普遍性(Catholic)である。
誰が聞いても不快に感じることのない音楽、簡素簡潔安寧として一切のムリムダを排除した音楽、平穏清澄にして豊かな旋律美と揺るぎない構造美を特徴とする音楽、それはすなわち極限の美(究極のよさ(神))によってのみ構成された音楽。
かたやカトリック、かたやドイツルター派。それぞれ宗派は違えど、同じ教会音楽家としてバッハはパレストリーナの音楽を深く敬愛していたことだろう。旋律美や構造美をはじめとして『G線上のアリア』にはパレストリーナの面影が見え隠れするのである。
イタリアとドイツ、16世紀と18世紀。カトリックとプロテスタント。国も時代も宗派もまるで遠く離れたバッハがパレストリーナの影響を受けていた?(同じ教会音楽家というだけの理由で?)
これは単なるこじつけだろうか?
答えは「No」である。
バッハがパレストリーナの楽譜を所蔵していたことには資料的な裏付けがあるのだ。実際バッハは、国も時代も宗派も(!)超えて、名曲の名曲たるやを研究していたのだ。(ちなみに、バッハは他にもヘンデル(独)、テレマン(独)、クープラン(仏)といった同時代の超有名作曲家の楽譜やフローベルガー(独)、フレスコバルディ(伊)といった過去の偉大な作曲家の楽譜を所蔵し、そこから様々なスタイルを吸収していた。)
『G線上のアリア』は彼の努力の賜物なのである。バッハはパレストリーナから多くを学んだ。この曲の普遍性のルーツは、ローマのパレストリーナにあるのだ。
4.ヒップホップ集のバラードあるいは聖歌
ご存知の通り『G線上のアリア』の原曲は《管弦楽組曲第3番》の第2曲 Air である。(Airのイタリア語は Aria である。)
当時の「組曲」は、言うなれば現代の「ヒップホップ集」であり、リズミカルで小気味よいラインナップを気軽に楽しむ世俗的な音楽を代表するジャンルである。
バッハはあえてそこに「バラード」あるいは「聖歌」としての Air を挟み込んだ。 Air いわゆるアリアの最大の特徴はその抒情性にある。
ここに異物混入ないし取り合わせの妙という問いが浮上するわけだが、いかんせん、その効果があまりにも絶大だったのは言うまでもない。