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【読書感想文】フラナリー・オコナー「善人はなかなかいない」

 FARCRY5というゲームに出てくるボスキャラ、“ジョセフ・シード”を見ていて、(The Misfitみたいだな~)と思ったので、久しぶりにオコナーを読んでみました。

【オコナーについてはかつて出来の悪い卒論で取り扱ったぐらい。この記事は学識のない読書感想文です。オコナーを課題に出されて途方に暮れた文学部生さんがたまたまこの記事に辿り着いても、決して論文/レポートの参考文献などには並べないように。】


はじめに

 翻訳は、ちくま文庫の「フラナリー・オコナー全短編上下」横山貞子訳。本屋でオコナー買うとなると、十中八九これでしょう、おそらく。翻訳の雰囲気は作品の舞台の風土と合っていてとても読みやすいと思います。学生の時は英語の原文(amazonで適当にペーパーバックを探した)を読んだけど、疲れるし時間もかかるので今回は原文をときどき照らしながら翻訳を読みました。誤りなく読むためには原文にあたるべきというのは理解できます。だけど英語能力に限界がある私のような一般人なら、原文と翻訳を組み合わせて読むのがベストだと思います。

 原文を知っていれば、ここは要注意だなという翻訳の部分が見えてきます。たとえば、「はみ出しもの」という登場人物は原文では「The Misfit」。ミス・フィット。いま風の言葉で「(社会)不適合者」ということ。ただ、そう自称した彼にはそれ以上の意図がある。「はみ出しもの」と訳した横山貞子さんの考えを汲み取りつつ、自分ならどう訳すかを考えながら読むことが、最も理解を深める読み方のひとつではないでしょうか。

 ついでにタイトルにも注意します。原題は"A Good Man Is Hard to Find"ですから、邦題「善人はなかなかいない」は自然な感じでとても好きです。引っかかるのは「善人」という言葉。善悪の概念が、日本人とキリスト教圏の人々でズレすぎているのが、読むのを難しくしてそうに思えます。私は「善悪=物事の道理」くらいに考えています。そこに、キリスト教的な「神に近い方が善」を加えたような意味合いの言葉として、Good Manを捉えておきます。

本題

 「善人はなかなかいない」は短編集の表題を飾る一篇。オコナーの短編の中でも最も悲惨な結末を迎えた作品のひとつ。展開がわかりやすく、主人公が愚かで、問答が宗教的でよくわからない、最も典型的な(オコナー的な)作品でもあります。

 主人公の「おばあちゃん(the grandmother)」は旧式の価値観の塊のような人間。前半は愚かな老人と冷たい息子家族のドライブなのですが、この辺は喜劇的に読めばいいんだろうなと思われます。オコナーは自身の小説をコメディと呼んでいたらしいですが、かろうじて笑える部分も皮肉っぽすぎるし、あるあるを楽しむにはオコナーとの時空間を隔てすぎたのかもしれません。強いて言えば、この作品群がコメディだというのが、一番皮肉の効いたジョークに思えます。

 さて、この「おばあちゃん」というのがとにかく罪作りな人物。家族の破滅の原因を次々と作っていきます。その原因の根が、おばあちゃんの旧式な価値観にあるというのが一貫したポイントでしょう。おばあちゃんにとっての美徳が、破滅の原因となっています。(おばあちゃんの罪を並べると、猫を連れたこと、子供をけしかけて屋敷に進路を変えさせたこと、記憶違いに驚いて事故を招いたこと、〈はみ出しもの〉の正体を口にしたこと、あたりでしょうか)この旧式な価値観というのは、「いなかのおばあちゃん」の在り方をコミカルに描いたものです。そしてその在り方はカトリックのひとつの立場というか、一言で言えば偽善です。さらには階級(差別)意識と見栄の問題、自分本位。それでいて心から敬虔なカトリック信者であるというのがオコナーのひっかかりポイントなのでしょう。オコナーは自身が南部の実家で暮らし(療養)ながら、そこに住む人間の暮らしと宗教の結びつきについてじっと考えたのでしょう。妄想ですが。

 本題は、おばあちゃんと〈はみ出しもの〉との間に生まれる新しい関係について。終盤でおばあちゃんが放つ言葉「まあ、あんたは私の赤ちゃんだよ。私の実の子供だよ!」のせいで、読者はこの話がわからなくなってしまいます。これが一体どういう隠された意味を持つのか、気になるところですが、実は重要ではないのだと思います。重要なのは、何が起こったのか。この言葉の現実的な意味合いはなにか。二人を取り巻く現実を鮮明にすることです。そのために、ひとつの象徴を引き合いにだします。

 「象徴」という用語を使うと、なんでもよくわかったような気持ちになって、物語を簡単に誤った解釈で読んでしまえます。なので今回考える象徴はひとつ、「太陽は神の象徴である」だけとします。これはキリスト教(には限らないかもしれませんが)という文学の根本的な象徴のひとつでしょう。太陽のもつ物理現象的な性質が、「神」を考える上で無視できなかったのでしょう。〔天高いところの一点、無慈悲、無差別、光を与える→形を与える、上下を示す〕

 作品中の太陽についてひとつ注目する点は、〈はみ出しもの〉と出会ってからの「雲も太陽もない空」という描写です。この空について作中で何度も言及されるのですが、雲はともかく、太陽のない空というのはおかしなものです。神とは善なる存在ではありません。神とは絶対的な創造主ですから、善悪の判別、物事の道理を生み出す存在でないといけません。善悪そのもの、道理そのものと言えば、日本語との馴染みがよいでしょうか。「太陽のない空」とは、簡単に言えば、善悪の判別がない(わからない・失われた)世界を表しています。〈はみ出しもの〉とおばあちゃんの対峙は、そのような空間で行われていることを意識してみます。

 では前半部分、〈はみ出しもの〉以前の太陽はどうでしょう。太陽自体は言及されませんが、「陽光」については二か所ほど登場機会があります。「白銀(silver-white)の日光」「白い陽光」、共通項がありますね。「白」です。この作品では、陽光は白いのです。オコナーは物事の描写に色を用います。ここで「白」といえば、

おばあちゃんはくつろいで、い木綿の手袋をぬぎ(中略)。だがおばあちゃんは、いすみれを飾った紺色の水夫型麦わら帽をかぶり、紺地にのこまかい水玉もようのドレスを着ている。衿と袖口はレースで縁取りしたのオーガンジーで、えりもとには匂い袋つきのすみれの造花をつけている。

おばあちゃんの服装の描写には「白」がちりばめられています。引用部分の直後、「もし事故があって、ハイウェイで死体をさらすことになっても、ひとめでこの人はレディーだとわかるだろう。」という印象深い一文は、おばあちゃんの性質と語り手の態度を同時に強調しています。つまり、「ここ大事だよ!!」というアピールでもあります。作者が意図したかは別として。

 さらに私が「白」そして「銀(silver)」で思い当たるのは、おばあちゃんが懐古する屋敷。「白い円柱が六本」と「家伝来の銀器」です。これもおばあちゃんの美徳(美しき思い出)であり、家族の事故の原因のひとつです。

 まとめると、おばあちゃんにとって「白」とは「善なる色」です。ちゃんとした身なり、古き良き建築(豊かさ)、これらは善人のいない現代に失われた宝物なのです。オコナーが生きた空間を考えると、当時のレディーたちにとってそれらと「敬虔なカトリック」であることはセットです。この辺は後述。

 一方、〈はみ出しもの〉は「髪が半白になりかけ」で「茶とのコンビの靴をはいて」います。いかにも〈The Misfit〉らしい出で立ちですね。取り巻きの二人の服装にも注意が向きます。ふとった青年(ボビー・リー)の赤地のシャツには銀色の雄馬、もう一人(ハイラム)は紺の縞のコートを着ています。二人は少しずつ、おばあちゃんの美徳を身にまとっています。太陽のない空の下で、おばあちゃんの価値観はこれでもかというほど揺るがされていることになります。「ただ敬虔であること」の価値を疑うオコナーの態度を読み取ってもよいかもしれません。

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