論理パラドックス(3)全体と部分
イアン・マギルクリストの論理パラドックスに関する論考をもう一つだけ紹介したい。マギルクリストの主張は、人間の脳の左半球と右半球が世界を2つの異なった方法で見ており、論理パラドックスの多くはこの異なる世界観の対立から生じているということであった。
右半球の見る世界は、ユニークで、常に変化して流れ、相互に結びつき、ゲシュタルト心理学でいうゲシュタルト (全体性を持ったまとまりのある形態) の世界であるのに対して、左半球にとっての世界は、一般的で、数量化でき、部分によって説明できる生命のない世界である(「分離した脳の理解を通して見る世界」参照 https://note.com/baba_blog/n/nc1e8e01e7857)。
全体と部分にかかわるパラドックスとしては、よく知られる「テセウスの船」がある。
生物学者の福岡伸一が「動的平衡」などの著作で述べているように、人間の身体は、タンパク質、炭水化物、脂質、核酸などの分子で構成されているが、分子は絶え間なく分解と合成を繰り返しており、一年前の私と今日の私は分子的にいうと全くの別物である。生命は変化しながらも、いや、むしろ変化することによって、同じであり続ける。
マギルクリストの脳の半球の違いに関する理解に従って、このパラドックスみると - 全体を見る右半球にとっては、全体としての形(ゲシュタルト)は変わらない、船は依然としてテセウスの船である。しかし、ものごとを部分に分けて分析する左半球から見ると、部分が変われば、それは別のものになる。右半球の見方が困難な人は、その時々で同じ人を同じ人と認識できない傾向を示す場合がある。統合失調症や右半球の病変・損傷で見られる妄想症状にカプグラ症候群というものがある。周囲の他者(通常、親しい関係にある人)が、本来の人物によく似た替え玉に置き換えられているという妄想的確信を持つ病態である。替え玉は本物そっくりだが、時に患者は本物とのわずかな「差異」(雰囲気や身体的特徴)を指摘する[i]。
このパラドックスの派生問題として、置き換えられた古い部品を全て取っておき、後から集めて別の船を組み立てた場合、どちらが本物のテセウスの船なのかという疑問がある。新しい部品に徐々に置き換えつつ代々維持されてきた船には、もはやオリジナル部品は一つもなく、ゲシュタルトしか残っていない。一方、回収されたオリジナル部品から組み上がられた船には、ゲシュタルトに加え部品も残っているので、こちらの方が本物だと主張できそうだ。これに対しては、徐々に変化して来たものと、一から作ったものとの違いを考えるべきという反論がある。たとえ、オリジナルな部品は残っていなくても、修理し続けられてきたことに意味がある。何故か?こうして代々大切に引き継がれて来たものには、それと歴史と運命を共にしてきた人々の物語が結びついており、船を生きているもののように感じさせるからだろう。生命と見做せば、たとえ細胞が全て入れ替わっても私が私であることに変わりないように、ゲシュタルトが全てである。
(ここで終わっても良いが、さらに少し続けると)石のような無生物であっても、物理学によれば原子やそれ以下のレベルでは絶え間なく流動している。マギルクリストは「すべては流動するが、同時に、流れは流れの中に一時的なゲシュタルトを形成し続ける。共鳴する全体の中に、区別できる実体がある」[ii]という。物質は、しばらく永続するプロセスが見せる形にすぎない。生物と無生物との間の境界は、思ったほどはっきりしたものではないのかも知れない。
[i]脳科学辞典の「カプグラ症候群」https://bsd.neuroinf.jp/wiki/%E3%82%AB%E3%83%97%E3%82%B0%E3%83%A9%E7%97%87%E5%80%99%E7%BE%A4
[ii] The Matter with Things, Kindle版 P.1024