私たちの復興
あれから10年
この書き出しをここ最近良く目にする。
あの時からの年月にしては、短く感じもするし、その逆に長く感じもする。
私自身、あの時から震災についての自らの感覚をあえて鈍感にしていたからか気持ちが曖昧だ。
2011年3月11日
独立前の私は前職で、あるイベント現場に出向いていた。会場は沿岸部に位置していたが、そのことを意識したのは、恥ずかしいことに震災の後だった。いつもと変わらない朝が始まって、いつもより慌しく仕事場に向かい、前日に準備が完成したイベント会場で、スタッフ達と各所の確認を済ませて、私は本部がおこれてる会議室に、上司と数名で待機をしていた。
14:46
下から突き上げる様な激しい揺れに全く身動きが取れなくなった。
それでも直ぐにおさまるだろうと、おどけた笑みを浮かべる間もなく、揺れは激しくなり、尋常じゃない事態に気づいた。
「桃田、アナウンス入れろ!会場にアナウンスを入れろ!早く!早くしろ」上司の怒鳴るような声は耳に届いていたが、想像以上の揺れに足元がとられ、倒れた身体を起こすことができなかった。
間も無くして、会場にいる関係者、お客さんの避難がはじまった。会場は一階の施設だったため、隣接している建物屋上に避難を開始した。
「どなたか残っていませんか?」最後に部員らで会場内を回り、我々も屋上に向かった。
3月だけどまだ雪がパラパラと降る日だった。
〈何も屋上に避難しなくてもよかったんじゃないか〉とまだ思っていたほど津波に無知であった。道路には逃げるように急ぐ車が数台見えた。
次の瞬間、ゴォーゴォーゴォーと下から聞こえるような音がして、屋上の先を見ると、波がスローモーションでかなり離れている所に見えた。
〈距離はあるな〉っと確認した間も無く、凄い勢いで波が私達がいる建物の下の階を激しい音で当て去っていく。
目の前で何が起きたのか分からなかった。
〈今のはなんだったのか。〉
そうこうしてるうちに、第二波がくるとの情報が入り、今避難している建物でも高さが足りない事態に、急ぎ揃ってまた隣接するもっと高い建物に移動した。その判断で第二波から身を守ることができた。それでも〈さっきのは何だったのか。〉さっきの出来事が理解できないまま、グルグルと映像が頭の中で繰り返す。
一晩を建物の中で過ごした。建物は様々な会社が入っているビルのようで、会社の部分や廊下を間借りして身体を休めることにしたが、私は一睡もできなかった。頭に流れるさっきの映像は時間と共に具体化して、飛んでいたシーンが蘇る。波に飲み込まれる車、走る人、そういった映像が蘇った。朝方、気分転換をしようと外の非常階段に出ると、車が重なっていて故障した車はクラクションがずっと鳴りっぱなしだった。
ここは現実だろうか。
翌日市内にある会社に戻った。
昨日は市内の様子を知る術がなかったが、戻っても奇跡は起こっておらず打ちのめされた。
歩いて2時間のパートナーはっちゃんの家までの道のりを無になって歩いた。灰色になった無機質の町がそこにはあった。
日常が消えたんだ。
パートナーのはっちゃんの顔を見た瞬間、涙が勝手に溢れた。
震災後、様々の方の体験や思いを聞いたり見てきた。あれから、日本は建て直しの力、復興する強さを賞賛されてきた、本当にそう思う。ライフラインなど不便をした時期もあったが、日常が消えたと思えた時期から、想像以上に、見える復興は進んできている。
先日、新聞でダイビングの資格を取って、今も戻らない奥様を自ら潜って探している方の記事を目にした。未だ見つからない行方不明の方々がまだいるのも事実である。
10年を節目と言って良いのだろうか。
震災で大切な人を亡くされた方々にとっては、震災からずっとずっと苦しんでこられて、10年だからといって何かが劇的に変化するわけではないはずだ。どの年の3月11日も大切な日で、そう考えれば10年過ぎても、11年、12年・・・18年その先も、どの年だって節目なんだと思う。
私は幸運にも今生きている。
あのままイベントを続行していたら。
あのまま高い建物に移動せずいたら。
思う時がある。
私の命は誰かが生きたかった命。
復興、復興と言われている影で、誰かの気持ちを置き去りにしてはいけない。節目という言葉に心が張り裂けそうになって苦しんでる人はいないだろうか。まだ終わっていないし、終わらせてはいけないんだ。
亡くなった方やご遺族の気持ちを想像する努力と、心に寄り添う少しの優しさを忘れない事が、震災を風化させない事に繋がると思う。
そして震災を経験した今生きている私たちだからできることではないかと思う。